ローマ人への手紙9章

さて、パウロは人間の罪の問題(1-3章)と信仰による救い(4章)、キリストの恵み(5章)、バプテスマの意味(6章)、信仰者の葛藤(7章)、いのちの御霊による信仰の成長と完成(8章)について語ってきた。ところが、この9章から11章は非常に奇妙な挿入で、これを省いて12章に飛んでもあまり違和感がない。しかし全体の流れにあって、とても重要な部分でもある。

まずパウロは、ここで、自分の宣教者としての取り組みを語っている。彼は非ユダヤ人への使徒という自覚を持ちその働きに誇りを持ちながら、実際には、同胞のユダヤ人の救いを強く願っていた。ユダヤ人の多くは、キリストを拒絶し、その恵みを受けようとせず、心を頑なにしたままであった。かつては、パウロも同じであったが、彼はダマスコへ向かう途上で、格別な主のあわれみに捕らえられ滅びの中から救い出されたのである。パウロはその恵みに同胞のユダヤ人も同じように導かれることを願い、そのためであるなら、神に永遠に呪われた者となることさえ臨んでいる、というほどであった(3節)。

彼がこのように語らざるを得ない、ローマ教会の事情もあったのだろう。ローマ教会の最初の信者はユダヤ人であったと思われる。しかしパウロがこの手紙を書いた頃には、非ユダヤ人が優勢の教会となり、ユダヤ人は一種、差別的な扱いを受けていたと考えられている。実際、キリスト教会は、初めナザレ派と呼ばれるユダヤ教の一派と見なされていたが、この頃には、ユダヤ教とは分離したキリスト教会独自の歩みを進めるようになってきていた。そういう中で、ユダヤ人キリスト者の立場も微妙なものとなっていたのだろう。ここでパウロは非ユダヤ人の多いローマ教会の読者に対して、旧約聖書に始まる神の救済の歴史の中で、非ユダヤ人たちがユダヤ人と共にどのような位置づけにあるかを整理して語らなくてはならなかった。選びの民であるユダヤ人とそうではない非ユダヤ人が、どのように同じ救いを共有しうるのか、それは一つのクエスチョンであったのである。

ただイスラエルの民は、イエスを拒絶し、イエスを鞭打ち、辱め、十字架につけて殺してしまった。パウロに至っては、イエスの弟子たちに暴力を奮い、投獄し、痛めつけ、苦しめる残虐さを示した。しかしそんなパウロにまず神は、哀れみを示し、約束通りにキリストの救いに与らせてくださっている。だからイエスを拒絶した後ですら、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものであることに間違いはない(4節)。

しかし、聖書の「ユダヤ人」というターム(言葉)をどう理解すべきか注意しなくてはならない。パウロは、アブラハムの二人の息子、イシュマエルとイサクを例にあげる。神の約束が適用されたのは、イサクのみであり、アブラハムの子全てではない、と(7節)。また、エサウとヤコブの例をあげて、神の約束は、人間の義や努力に基づいて適用されたわけでもない、とする(16節)。神はヤコブの性質が明らかにされる前、つまりヤコブが生まれる前からヤコブを選んでおられたからだ。

言いたいことは、パウロは「ユダヤ人」という場合、それは、人種的な意味で使われているのではなく、霊的な意味で使われている。神の約束に信仰的に応答する人のことを言うのであり、そのような意味で、神の約束は未だに機能しているのだ、と言う。だからこそ、神の約束は、選びの民ではない者にも、選びの民にも共有される、と。大切なのは神が定めた方法、つまり信仰によってこの神の約束に応答することなのだというわけである。ユダヤ人は残念なことに、信仰ではなく、行いによって神の選びの民にふさわしくあろうとしている、それが問題だ、と指摘する。いかなる民族性を持っていようが、あるいは、いかなる性質や、過去を持っていようが、「イエスに信頼する者は失望させられることがない(33節)」つまり皆神の子として扱われる祝福を得るのだ、というのである。

こうしてパウロの主題が繰り返される。信仰による徒がユダヤ人、つまり神の選びの民であり、民族的に非ユダヤ人であれ、つまり日本人であっても、信仰による徒になるなら、真の神の選びの民に加えられる。ローマの教会は、信仰による徒の群れであるかどうか、パウロがこれから出かけようとしているローマの教会と分かち合いたい信仰の確信はそこにあった。今日、私たちも信仰の徒として、礼拝に集うこととしよう。