ローマ人への手紙11章

パウロは9章で、イスラエルが過去に神の主権によって選ばれたことを強調している。そして10章では、イスラエルがその選びの中にありながら、福音を拒絶したこと、しかしそのような不信仰は、今に始まったことではないイスラエルの歴史的な経緯が説明される。そしてこの最後の11章では、イスラエルが未来に回復されること、それが世界的な祝福の前触れとなることが強調される。つまり、イスラエルの過去、現在、未来を通観すれば、神はどこまでもユダヤ人への約束を取り消されることはなく、依然としてユダヤ人を選びの民とし、救いを提供しておられるというわけだ(4節)。

自己流に信仰を持つだけで福音に耳を傾けようとしない、民族的なユダヤ人は、もう神から見放されてしまったのか、捨てられてしまったのか、と言えば、そうではない。彼らは、モーセと預言者によって語られた昔も神の言葉を拒絶したが、神は彼らを見捨てられなかった。今でもイエスによる救いの方法、つまり福音を拒絶したといって見放されたわけではない。恵みに応じる者が救われる原則は変わらない。神は恵みの神であり、悔い改め、神を求める者を拒まれることはない。パウロはその具体例を示すために、エリヤの例をあげる(3節)。イスラエルが霊的に堕落し、全国家的に背教し、誰も神を認めようとしなかった時代、神のことばを伝え続けることに落胆した預言者エリヤは、まだまだ神の側に立つ7000人の者が残されていると語られ、励まされている(1列王19:18)。同じように、民族的ユダヤ人が、福音を拒否し、ユダヤ人は救われる可能性がないように見えても、そこには福音の側に立つ霊的な真のユダヤ人が残されている。パウロ自身がそうであったし、また他にもそのようなユダヤ人がいたことに間違いはない。彼らの存在自体が、神が民族的なユダヤ人を見捨てられたわけではないことの証拠であった。神は恵み深い方である。

また、ユダヤ人が一時的に捨てられたように見えているのは、捨てること自体が目的なのではなく、それによって異邦人に素早く救いが及ぶためであり、またユダヤ人に妬みを引き起こさせる、つまり逆にイスラエルに神を求めさせ、奮起させる機会を提供するためである、という(11節)。いわゆる相乗効果を狙ってのことである。

次にパウロは、神がユダヤ人を見限ったわけではないことを二つの例話で示している。おそらくこの背景には、ローマ教会の非ユダヤ人キリスト者が、仲間のユダヤ人キリスト者を低く見ていた事情があったのだろう。神は、あわれみのよって、滅亡寸前の国家からユダヤ人を救い出されたと。そこでパウロは、ローマ教会の非ユダヤ人に、健全なユダヤ人の見方について説明するのである。まず、粉の塊(16節)の例をあげる。民数記15:17-21からの引用で、収穫された麦の粉の最初の部分は、神様に捧げられるのだが、それは、粉の塊全体が神様に属するものであることを象徴している。つまり、イスラエルの父であるアブラハムが神に受け入れられたのなら、その子孫も受け入れられると言いたいのだろう。パウロはこのたとえを簡単に書き流し、すぐオリーブの木(16-24節)のたとえを示している。オリーブは、イスラエルの民の象徴で、その木を支えているのは木の根っこである、という。根っこはイスラエルの族長たちのことだろう。神はアブラハム、イサク、ヤコブと契約を交わされた。そしてその契約に否定も変更もない。イスラエルが今日も守られ、支えられているのは、この根っことなる契約のためである。

興味深いことにパウロは、ユダヤ人を木から折り取られた枝として描いている。そして、他の枝、つまり異邦人が、その木の命を受け継ぐように接木されたという。この「接木」は「性質に反したもの」である(24節)。というのも普通、栽培種の枝が野生種の枝に良い実を結ぶように接がれる。しかし、よい木に「野生種」つまり異邦人の枝が接木されているからだ。そこでパウロはローマの人々に言う。異邦人であるあなたがたは、自分たちの新しい霊的な立場を誇るようなことがあってはならない、と(18-21節)。むしろ、異邦人教会が高慢になり、神の恵みに頼ることを忘れて、神への信仰を捨てて自分により頼むなら、彼らもまた切り落とされる。神の真の民の特徴は、ただ主の恵みにより頼むことにあるのだ。だから、見捨てられて神の愛顧を失ったかのように見えるユダヤ人が、ついにキリストを信じるようになるなら、彼らは神の民に新たに加えられるだろう。そして切り取られた古い枝が再び雄やぎに接ぎ木されて実を結び始めるのは、奇跡以外のなにものでもない。しかしそれこそが神が成し遂げようとしている神の御計画なのである。ように見えるイスラエルが盲目にされたのは、あくまでも一時的であり、「異邦人の完成のなる時まで」(25節)であり、皆が神のもとに遜って神の救いに与るためなのだ(26節)。

「神の賜物と召命は変わることがない」(29節)神のイスラエルに対する計画は決して変わることはない。神の知恵に対するパウロの称賛が続く。パウロはここで、地上のダビデ王国の回復については何も語っていない。パウロは自らの民族についてもっと優れた霊的な祝福につて思い描いていたのであろう。そういう意味では、私たちは、同胞の日本人に対する宣教はもちろんのこと世界の民族に対する宣教に熱心になり、その中に、「根(ユダヤ人)があなたを支えている」(18節)という事実を覚え、つまりユダヤ人に対する負債があることを心に留め、ユダヤ人の救いのために祈り続けなければならないことはあるだろう。

しかしながら、この9-11章のユダヤ人に対する議論は、実は、1-8章にまで展開された人間の救いの理解をさらに深めさせてくれる。つまり、頑ななユダヤ人が神に決して見捨てられないということは、いかなる非ユダヤ人も、神に見捨てられないことの例証である。あなたの救いは確かである。主に対する信頼をしっかり告白しよう。神の恵みは深く、その知恵は計り知れない。