コリント人への手紙第一11章

1節は、どうも10章につながっているのだろう。神のみこころに生きることについては、キリストがその模範である。私もそれに倣っている、という。

さて2節からは、教会における諸活動をめぐって、秩序化していく内容となっている。それらは、礼拝の服装(11:2-16)、礼拝と共に行われる愛餐(11:17-23)、聖餐(11:24-34)、賜物の活用(12章)、愛による調和(13章)、異言の問題(14:1-23)、礼拝秩序(14:23-33)、礼拝における女性の立場(14:34-36)に触れている。

最初に女性の服装の問題。特に女性が公的礼拝の場でかぶり物をするか否かの問題である。当時のユダヤ人女性たちは、公の場では必ずベールをかぶっていた。しかしその礼儀作法を乱す女性たちがおり、パウロはこの問題に答えようとする。信仰を持つことは、常識的ではありえないが、非常識になることでもない。習慣化した慣例を簡単に否定してはならないのである。ただ、その問題への回答として、パウロは、ユダヤ人の習慣を肯定、支持したというよりも、これを聖書の規範に照らして説明している。教会の秩序の問題を扱う時に、聖書がこれをどう教えているかに読者の注意を向けるのである。

そこでパウロが示したのは創造の秩序であった。創造において、女は男を起源とした(創世記2:21-22)。そして、男はキリスト、キリストは神を頭としている(3、7節)。これは、男は「神のかたちであり、神の栄光の現れ」であるが、女は、「男の栄光の現れ」である。だから女は男への服従のしるしである覆いをつけている。これは、前近代的な価値観として、なんとも受け入れがたい女性観だと思う人もいるだろう。だがパウロは、ここでそれ以上のことを言っている。つまり、神を礼拝することにおいて、覆いをかぶることはもっと積極的な意味を持つ。つまり、女は、神の臨在の前で、自分が「男の栄光の現れ」である必要はない。むしろ、「男の栄光の現れ」を覆い隠して神の前に出なければいけないのである。となれば、かぶり物は、誰かの下にある「服従のしるし」ではなく、男の栄光の現れを覆い隠して神の前に出る「権威のしるし」でもあるのだ。だから男は、神の栄光の現れとして神の前に出、女は、「男の栄光の現れ」を覆い隠して、神の前に出ることが正しいとなる。神の御使いたちが見ている前では、そのように霊的な意味を理解して、その作法を重んじるべきだ(10節)、となる。ユダヤ人の古い文化に、聖書的な新しい意味付けをして、現状の調和を計ったよい例と言えるだろう。

ルターは、宗教改革の際に、信仰の本質に関わらない事柄は、極力カトリック的なものを引き継いだと言われる。その後、カルヴァンの時代になると、カトリック的なものは徹底的に排除されていくのであるが、ある意味で、時代の流れとともに物事が変化していくことはやむを得ないもので、過渡期的な時代には、秩序を考えた時に、それを全く否定すべきものと、ある程度、その意味を聖書的に再解釈して、しばらくそのままにしておくべきこともあるだろう。

だから今日この箇所について言えば、必ずしも文字通りこの聖書的原則を当てはめることが聖書的、信仰的だというのではなくて、むしろ、ここで教えられているのは、公私を区別し、服装は自由であるが、他人の礼拝の妨げにならない、場を弁えた配慮ができるかである。だから、その共通理解をもって、それにふさわしいあり方を教会で決定していくことがよいのだろう。そして、習慣を大事にしたいという考え方で教会が分裂しそうな問題があるのなら、パウロのようにそれを聖書的に再解釈して、分裂を避ける方が賢明なのである。なお14-16節は、補足説明であるが、風俗習慣という観点から自然な行動を取るように、と念を押す内容になっている。

さて公的礼拝の第二の問題についてパウロは、愛餐の問題を取り上げる(17-22節)。愛餐は、コリントの教会では礼拝の一部だった。しかし、教会の分裂によって、信者はめいめい群れて食べ、貧しい者には食事も回らず、神の家族として交わる状況も失われていたのであろう。愛餐の目的は、愛の分かち合いであったが、全くその機能を果たしていなかったのである。

しかしここでパウロが問題にしているのは、配慮だけの問題ではない、愛餐と聖餐の区別である。礼拝でまず大事にされるべきは聖餐である。教会でパンとぶどう酒が分かち合われたのは、キリストを覚えた交わりをするところにあった。腹を満たすためではない。皆でキリストを分かち合うことにある。キリストとのいのちある関係に皆の心が向けられ、霊的なものが分かち合われていく、それこそ教会の場に求められることなのである。コリントの教会では、そのようなキリストに向かう聖餐と、共同の食事である愛餐が混同されていた。聖餐は、主が制定された厳粛な式である。だから聖餐は、それにふさわしく、吟味をもって、敬虔に守られなくてはいけない。だから空腹ならば家で食べなさい。共同の食事を目的とするならそれは愛の配慮をもって家で大事にしなさい。そして礼拝をするならば、キリストを中心にキリストと共によい時を過ごすことであると言うのである。