コリント人への手紙第一13章

しばしば、「愛の賛歌」と呼ばれる章であるが、文脈は、12章から続き、「さらにまさる道」「よりすぐれた賜物」として語られる。つまり、教会で最も求められるべき賜物は、いやしでも、異言でも、預言でもなく、愛である、となる。なぜなら、第一に愛は働きに価値を加える(1-3)。パウロは、異言、預言、知識、信仰、そして分け与える賜物と五つの例をあげるが、どんなにこれらの賜物に優れ、それらを十二分に発揮したとしても、愛がないのなら何の値うちもない、とする。確かに真実なことばも、愛を持って語られればこそ人の心を打つものになる(エペソ4:15)。

4節から、パウロは、愛の15の特質を語っていく。しかしこれもまた、コリント教会の背景を踏まえて読むべきところだろう。というのも、コリントの人々は、まさにこの逆を行っていた。彼らは非寛容であり、不親切であり、妬み、自慢し、高慢で、礼儀に反し、自分の利益を求め、怒り、悪を追及し、不正を喜び、真理を喜ばなかった。我慢し、信じ、期待し、耐え忍ぶことがなかった。彼らの教会の秩序と品性を回復するには、まさに愛が必要とされた。彼らには、人に対して忍耐する力があること(寛容)、ひどい扱いがあっても善意で応じること(親切)、他人の成功に気分を害しないこと(妬まない)が必要であった。また、自分の足りなさを覚えて、遜りをよしとする意識(自慢せず)、自分の至らなさを覚えて、相手を満たそうとする関心(高慢にならない)、礼儀、礼節を尊ぶ態度(礼儀に反することをせず)、自分の権利よりも世間から受けた借りを忘れない心(自分の利益を求めず)、怒りを抱いても自分の心を抑えることのできる精神力(苛立たず)、悪を数え上げるのではない、忘却する度量(人がした悪を心に留めず)、闇よりも光を求める意思(不正を喜ばず)、真実に直面することをよしとする胆力(真理を喜ぶ)を持ち、いかなる侮辱、いかなる無礼、いかなる失望にも(耐え)、人をいつでも善意に解釈し(信じ)、失敗しても諦めたりせず、いつでも前を見て進もうとする「期待」が必要であった、不屈の精神をもって行動し続けること(忍び)が求められるのである。

愛は不滅であるが(8-13)、預言や、知識、異言はいつまでも続かない。預言と知識には同じ動詞(廃止される)が、受動態で使われているので、それらは(神によって)廃棄される、ことを意味している。異言は別の動詞(止む、中止する、抑制される)が、中間態で使われており、中間態は、「自ら~」を意味する用法であるから、異言はそれ自身でやむ、ひとりでに止む、という。確かに、今の時代において神は、私たちに不完全な啓示しか与えておられない。すべて地上において知られることは、一部に過ぎない。神については、多くは神秘やなぞに包まれた状態である。しかし、やがて私たちは神の臨在に触れ、完全にすべてを知るようになる。そうなれば、コリントの人たちが重きを置いていた預言も知識も異言の賜物もいずれ居場所を失うのである。12節前半も9節を繰り返し、今の私たちが、神に完全に知られている(髪の毛の数さえも数えられている)ように、やがて私たちも完全に知るようになる、という。パウロが、鏡を例に挙げたのは、コリントが鏡の生産で有名であったこと、その鏡が研磨された金属を用いたもので、良く映る上質な鏡はなかなか入手しにくかったことを踏まえている。つまりコリントの鏡は最高の品でも、不完全にしか物を映すことができなかったのである。ただここで、パウロが加える重要な視点は、11節、大人の考え方をしよう、ということだ。パウロは、「やめました」と言い、自ら決断して、子どもっぽい考え方を完全に終わりにした、と宣言する。預言、知識、異言に対する客観性を持つ大人になろうということだ。

13節も預言、知識、異言に対する対比で語られる。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛とある。信仰と希望と愛は、あの世においても存続すると読めそうである。しかし、対比のポイントは、「今」と「あの世」ではなく、「預言、異言、知識」に対して「信仰、希望、愛」である。また信仰と希望と愛を、パウロは、単数の一つの動詞で受けている。文法的には一番近い主語に動詞を合わせたに過ぎないかもしれないが、パウロは、信仰と希望と愛をほぼ同義、一体と見なしていることに注目すべきである。実際パウロは、愛することの中に、信じ、期待することを含めている(7節)。愛することと信頼し、期待することは切り離せないのだ。事実愛なき信仰は冷たく、愛なき希望は威圧的である。愛は信仰を燃やし、希望を現実に変えていく。だから愛は大いなるものなのである。