コリント人への手紙第一14章

パウロは、この14章において秩序づけられた礼拝の問題を取り上げる。パウロは、愛を追い求め、預言を熱心に求めるようにという。異言ではない。どうしてか。そもそも聖書で異言といった場合、それは外国語を指していたのは明らかである。使徒2章を読むと、それは「他国のことば(4節)」、「私たちめいめいの国の国語(8節)」、「私たちの国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは(11節)」である。それが教会史の中で解釈の変遷が起こったのであろう、これを「未知の言語」、あるいは「天上の言葉」と理解しているキリスト者も少なくない。しかし聖書が書かれた時代にあっては、これは通訳を必要とする外国語に過ぎないものであった。預言もよく誤解されているように未来や秘密を語る予告ではない。それは神の言葉の宣言であり告知である。

パウロが「異言」と「預言」をどう対比したかに注目しよう。22節、異言は「不信者のためのしるし(証し)」であり、預言は不信者ではく、信者のためのしるしである。異言は神に話すが、預言は人に話す(2節)。異言は、自分の霊で奥義を話すが、預言は人の徳を高め、勧め、慰めを与える(3節)。異言は、自分の徳を高めるが、預言は教会の徳を高める(4節)。異言が教会の徳を高めるのは、解き明かされる時である(5節)。

そこで21節において、パウロが引用しているのはイザヤ28:11である。ちょうど、アッシリヤ帝国の脅威にさらされて、もう一つの大国エジプトに頼ってその危機を乗り切ろうとした、南ユダ王国に対して、イザヤが語った警告の中の一文である。だから「この民」はというのは、文脈からすればユダヤ民族になる。つまりパウロは、言いたいことは、異邦人が異言を語る現象は、不信仰に陥っているユダヤ人へのしるしだ、ということだ。つまり、異言の主要な役割は証しであり、宣教である。それはよく言われるように「とりなし」とか「祈り」の手段ではない。だから当時の礼拝の中で、異言は外国語による証しとして位置づけられたのだから、解き明かす者、つまり通訳者が必要だ、ということなのである。

大切なのは、異言にしても、預言にしても、「人を育てる」(3節)、「教会を成長させる」(4、5、12、26節)という目的性を持つことなのだ。だから異言が妨げになるのなら、黙っていることも必要であるし、外国語である以上は、解き明かしをする人、つまり通訳を立てなさい、ということにもなる(27,28節)。神は混乱の神ではなく、平和の神であるから、教会の秩序を乱したり、教会が混乱したりするような賜物の使い方はないのだ、というわけである。

さて、パウロは、「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。」という。「語る」と訳されたギリシア語は「ラレオー」である。「ぺちゃくちゃしゃべること」、つまりお喋りを意味する。しかし同時に「説教をする」、「預言する」という意味でも使われることがあるので、説教を禁じている、と理解できなくもない。しかし、ここは、会衆の中の女性の無駄口について語ったものであろう。これまでの文脈からすれば、説教の最中に、女性が余計な口をはさむ問題があったのではあるまいか。パウロはそのような無神経な女性に異議を唱えたのである。それは礼拝秩序を乱すことである、と。神のことばが語られているのなら、それを尊重して最後まで聞き、質問があればとりあえず終わってから、家でしなさい、と。

結局問題の根は単純である。異言にしても、女性の発言にしても、根っこは自分を認めさせようとする肉の問題から発しているのだろう。結局、信仰を持っても、その人の性質が、信仰生活、教会生活であって問題になることが多い。育ちや、性癖が、妨げとなるのである。大事なことは、そのような自分の弱さに気づいているかである。温かく指摘し、気づかせてくれるような信仰の友達関係があるかである。教会というのは、病院のようなものであって、それぞれが信仰の課題に取り組み、成長していく場であり、完成されたような人がいるような場ではないのだから、お互いの弱さをみことばによる戒めと励ましによって、変えていける場であるかどうか、変えていこうとする意欲を支えられる場であるかどうかが大事なのだ。神よりも人の目を意識し過ぎる、あるいは、人の目を意識させられる教会であってはならないのだろう。いのちを与えるキリストとの関係が大事にされ、人が育ち、教会が成長する、そのようなことが熱心に求められる、そのような教会でありたいものだ。