コリント人への手紙第一15章

パウロは、最後の重要なテーマ、いわゆる福音と復活の問題を取り上げる。2節、「この福音によって救われます」は、文法的に現在の継続であり、「救われ続けているのです」を意味する。つまり、私たちの救いは過去一度限りの出来事であるのだが、継続的に発展しているものだという意味がそこにはある。まさに救いは力から力へ、栄光から栄光へと進んでいくのである。そこでパウロは、福音の本質を要約する(3-9節)。福音はイエスの十字架の死と復活に関することであり、それは歴史的事実であり、神の恵みとして経験されたことである。

パウロが、14章まで礼拝の秩序を教え諭す後に、福音について語ることは興味深い。というのも、結局信仰というのは、形ではなく、中身が問題なのである。どういう考え方、価値観、信仰に生きているか、という問題である。パウロは、私たちの信仰の根本は、倫理でも、配慮でも、奇跡でも、異言でもなく、福音にある、という。キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られた後に復活されたことを信じることにある、という。

コリントの人々に特記すべきことは、中でも福音の中心である復活についてであった。当時のギリシア人たちは、霊魂の不滅は信じていたが、体の復活は信じてはいなかった。肉体は物質であり、悪であるという思想もあった。また、ユダヤ人でサドカイ派の人たちは復活を否定していた。そういう考え方の者たちに、パウロは、復活が事実であることを力説する。

まず、もし復活がないならば、どんなことが起こるだろうか。①キリストも復活されなかった(13節)、②私たちの宣教は実質のないものになった(14節)、③信仰も実質のないものになった(14節)、④神について偽証をした(15節)、⑤私たちは今もなお、自分の罪の中にいる(17節)、⑥キリストにあって眠った者は滅んでしまった(18節)、⑦すべての人の中で一番哀れな者である(19節)、というわけだ。一方キリストが復活したことを認めるならば、①キリストの復活は初穂であり、すべての復活の始まりである(20節)、②アダムは死をもたらしたが、キリストはいのちをもたらした(22節)、キリストはあらゆる支配、権威、権力を滅ぼされる、(24節)、最後の敵である死をも滅ぼされる(26節)、そしてご自分の完全な支配を確立する(28節)。

もしこうでないならば、とパウロは、再び、迫害の中での宣教の意味を問う。もし、復活がなく、すべてが死で終わるなら、なぜ身に降りかかる危険をも顧みず、キリストの宣教に身を投じるのか。復活がなかったら、パウロを初めとする使徒たちの捨て身の生涯は説明がつかない。むしろ、「明日は死ぬのだ、さあ、飲み食いしようではないか」という刹那的な人生を人は生きようとするのではないか。思い違いをしてはいけない。目を覚ませ。正しい考え方に立たなければ正しい生活も出てこないのだ、という(33節)。

また、パウロは、復活の考え方を愚かとし、現実的に死んで朽ち果ててしまう肉体を持つ人間がどのように復活するのか、という問いに答えている(35節)。植物における収穫の奇跡がこれを説明する。植物の種は土に蒔かれるが、それは、よみがえって身をもたげ、新たな栄光に輝く姿となって地に花を咲かせる。朽ちるものから朽ちないものに(42節)、卑しいものから栄光あるものに(43節)、血肉のからだから御霊に属するからだに(44節)、土で造られた者のかたちから天上のかたちに(49節)、それは全く新しく変態する神の御業である、という。そうでなければ、朽ちない、永遠の天の都の祝福に与ることはできないのであるし、それは、神の御業による一瞬の変化なのである、という(52節)。来るべき世に入るのは、今のこの体ではない。

復活の議論を進めながら、パウロは、神の主権に注目させる(38節)。結局、信仰においては神を認めること、神の主権にひれ伏すことがすべてである。奇跡、卑し、異言と、人間の側に起こることに引き寄せされて、信仰を人間の事象とするのではなく、神の主権を認め、神に従う心を持つことが肝要なのである。すべてはこの神の御前にあって秩序づけられて行われなくてはならない、この神の使命に心を注ぎ、主の業に励むことが期待されるのである。そして神は実在なのであるから、決してその労苦が無駄になることはない。だから、主を認める者がないとしても、また主に従うことがあまり尊ばれることがないとしても、ますます、主に信頼し、主の業に励むことにしよう。