コリント人への手紙第二2章

パウロは、コリント教会の問題を解決するために、既にコリントの教会を訪れていた(2コリント7:5)。しかしその結果は、事態が改善されるどころか、ますます悪化する散々たるものであったのだろう、もう二度とあのような訪問はしまいと決心した、という(1節)。彼が、再度、コリントの教会を訪問すると言いながら、その約束を果たせなかったのは、理由なきことではなかった(2コリント1:15-16)。神に立てられた使徒パウロですら、物事をうまく解決に導けず、苦慮し悲嘆に暮れたことがあった。ただ、彼は諦めず、俗に「涙の手紙」と呼ばれ、今や私たちが読むことのできない三番目の手紙を書いていた(4節)。つまり関係がこじれ、教育的に関わるにはあまりにも絶望的な状況に陥ったからといって、もう何も言えないと手をこまねいていたわけではない。教会が教会として理解してもらうべきことを、理解してもらうように努めていたのである。そしてそれは、親的な愛による行為であった、と回想している(4節)。

さて、その手紙は、功を奏したようである。だが、物事は単純ではないことがしばしばであるように、この場合も、行き過ぎがあったようだ。パウロが語ることは受け止められ、教会に混乱をもたらしている男に処罰がなされたようであるが、教会はさらにこの男を排斥しようとしていたようである。そこで、パウロは、教会がこの男をまず赦し、愛するように勧めている。パウロが譴責したのは、傷つけるためではなく助けるためであった。罪人を打ち叩いて働きを封じ、人畜無害な人間にしてしまうことではなく、彼を変え、整え、神の栄光に満ちた奉仕へと見も心も向かわせる親切心によるものであった。しかし、コリントの教会の人々は、問題点に気づくや否や、この人を赦さない、村八分にしようという行動に出たのかもしれない。犯した罪が白日のもとにさらされ、非難されるだけでも十分処罰を受けたのであり、徹底して、叩き潰し、立ち直れなくなるまで攻撃することがあってはならないのだ。聖書的に赦し、信じ、慰め、回復させていく、それが教会らしいことである。

だから、教会は、赦す時には、主の御前でその人を赦さなくてはならない。いつでも神との関係において物事を考えるべきであり、主にあって、赦しを確認しあうことが教会らしいことである(9節)。また、教会は、教会のためにその人を赦さなくてはならない。それは、悪魔の策略に陥らないためである(11節)。悪魔は、いつでも教会を破壊しようと狙っている。攻撃的な信徒は教会を破壊するための、サタンの道具とされやすい。サタンに利用されないためにも、私たちは、愛し赦すことに成長しなくてはならないのである。赦したならば、もうそのことはきっぱりと忘れることである。

さて、このコリント第二の手紙が書かれたのは、既に述べたように、悲しみの手紙が書かれた後のことである。諦めないパウロは、自身の心情を吐露する涙の手紙を書き送り、それをテトスに持たせ、テトスもコリントの教会を説得したようである。パウロは、自分が再度訪問をしなかったのは「思いやり」によるものだ、と語っているが(2コリント1:22)、それは決して口先ではない。実際パウロは、テトスを遣わした後、エペソを去ってトロアスに移動し、コリントへ向かう心構えを持っていたのである。だが彼はテトスを待った。一般に市販のどの聖書地図も、第三回伝道旅行のルートは、一直線で辿るように描かれているが、実際には、パウロは、エペソ・コリント間を幾度か往復し、落ち着きのない心で過ごしていたことになる。

だが、その時を思い返して、今やパウロは、神に感謝をささげている。というのも、パウロが心配する以上に神がコリントの教会を心配し、コリントの教会を建て上げ、完成されるように働かれていた事実があったからだ。実に教会を成長させるのは神である。コリントの教会はパウロが設立したものであるが、パウロが完成するものではない。教会はキリストの教会である、キリストがこれを最後まで完成される。その事実にパウロは思いを寄せている。解決不可能な状況に陥りながら、これを解決に導かれる神がいる、その神の勝利を思う時に、パウロは、ローマ帝国の凱旋の行列と、世界を征服するキリストの未来の勝利を思わずにはいられなかった。既に一章においてパウロは、コリントの教会がパウロの戦列に加わることを期待していることを述べている。その戦闘はやがて、ローマ帝国の凱旋のような勝利の凱旋をもたらすものである。戦役は終了し、世界はキリストの平和で満たされ、黙示録7:9、14:1にあるように、キリストの軍隊は勝利の帰国を果たすのである。

当時、ローマの凱旋は、第一に官吏と上院議員、次にラッパ手、そして征服地からの戦利品、征服地の絵、征服された砦の模型、生贄、そしてその後に鎖につながれた捕虜、つまり敵の王族、指導者、将軍たち、そして鞭を持った囚人係、音楽隊、香を持った祭司、そして将軍、将軍の家族、そして軍隊という順に行進した。パウロが心に描いていた凱旋の行列は、そのようなものである。そしてパウロは香を持った祭司に注目している。その香の香りは、もはやこの行列が終わったら処刑される他のない哀れな捕虜にとって、それは死の香りであるが、勝利者には香しい勝利といのちの香りである。つまりパウロは、コリントの教会に、その凱旋の列に加わるべく、戦列に戻ることを勧めているのである。キリストの勝利は確実である、いつまでも教会の内部でごたごたしている時ではない。戦列に戻れ、というわけである。

だが、コリントの教会の人々の中には、まだパウロを疑う人々がいたのだろう。パウロは、神のことばは確かであり、自分は混ぜ物をして語っていることはない(17節)と弁明している。神のことばが何を語っているのかに、注意深く耳を傾け、神の戦列に加わる者とさせていただこう。