コリント人への手紙第二5章

パウロは、天幕を作り、その収入で宣教活動を続けていた。1節は、そのパウロの経験に基づくたとえである。つまり、地上の幕屋は、私たちのからだのことを言っている。私たちの魂は地上の幕屋に借り住まいしている。それはやがて、壊れるものであり、「天の本当の住まい」を着る日を待ち望んでいるのである。だから、この幕屋にある限りは、2節「うめいて」、「ため息をついて」(詳訳)、「もう飽き飽きしている」(リビングバイブル訳)。パウロは、体の衰えを感じていたのかもしれない。また迫害や苦難の中にあって健康を損ない、思うようにならないからだを引きずりながら宣教をしていたのかもしれない。いずれにせよ、彼はうんざりしていた。ただ、彼は肉体の牢獄から解放されたい、と言っているわけではない。彼は、「死ぬはずのものがいのちによって呑み込まれるために」と言う。あるいは「天からの住まいを上に着たい」と言う。つまり、新しいよりよい体が与えられる信仰と希望に生きているのである。彼は望みなき人間ではない。神を信じる者は、永遠のいのちに生かされているので、肉の身体はやがて衰え、朽ち果て、塵に帰っていくが、備えられた新しい建物、新しい身体を受けて行く。それは神が御霊によって保証されていることである(5節)。

このパウロの願いは、前の4:16-18から「重い永遠の栄光」について語るものである。だから、4:18の「見えないもの」は、8節「主のみもとに住む」ことと言い換えられている。つまり9節、主にお会いして、主に喜ばれる時のことを言っている。人間は死んでそれで終わりではない、ということだ。しかしそれは、栄光への途上にあることばかりを意味するのではない。やがて、神の前に立つことになる、というのは裁きへの途上にもあることを意味する。やがて私たちは、神の判決を待つ身となる。それを思う時に、人生は厳粛にならざるを得ない。今のこの世の生活は、永遠の生活のあり様を決めるのである。私たちは思い永遠の栄光をぶち壊すような生き方をしているか、それとも、その時を獲得する生き方をしているかいずれかなのである。

パウロが語っているのは、神の恐ろしさではない。むしろ、そのような見通しで人生を生きているのであればこそ、主にお会いする日を覚えて、主に喜ばれることを願いつつ、宣教活動をしているのだ、ということである。パウロの弁明が続いている。パウロは、3章で推薦状のことを語っていた。パウロがユダヤの教師としての推薦状を持っておらず、パウロの語ることは、いかがわしいという者たちがいた。そうした批判を意識して、パウロは、またもや、自分を正当化しているのか、というと「そうではない」とする(12節)。パウロは、ただ自分の純粋な宣教を理解してほしいと願っているのである。そしてそのように願っている相手は、パウロを直接非難する人々ではない。「あなた方に私たちのことを誇る機会を与え」とあるように、敵とパウロの間で迷っている人たちである。パウロが語ることは大丈夫だ、信頼に値する、ということを、どのように語ったらよいのか迷っている人々に、パウロは言葉を与えているのである。

だから、14節から、さらにパウロは、自分の動機の純粋さを、別の言い方で語ろうとするのである。「神の御前に立つ厳粛さ」だけではない「キリストの愛が私を捉えた」と。「キリストの愛」というのは、「パウロのキリストへの愛」なのか、「キリストのパウロへの愛」なのか解釈の分かれるところであるが、ここは、先の神の御前に立つ厳粛さに対比し、後者ととらえるべきなのだろう。実際パウロは、「一人の人が死んだ」という事実に触れる。キリストが十字架によって示された全ての人への愛が、パウロの宣教の決定的な原動力となった、ということだ。キリストは、パウロのためだけに死んだわけではない。自分も含めたすべての人のためへの犠牲であった、という事実をパウロは深く認識している。14節「すべての人のために」というのは、「すべての人の身代わりに」という意味なのか「すべての人の利益のために」という意味なのか、ここも議論の分かれるところであるが、「すべての人が死んだ」というのであれば、「すべての人の身代わりに」と取るべきだろう。しかし、15節、キリストの死が、私たちを、「死んでよみがえった方のために生きる」という新しい原動力を引き出すとしたら、それは「すべての人の利益のために」をも意味して間違いはない。いずれであってもよい。むしろパウロが言いたいことは、パウロの宣教を力強く動機づけたのは、キリストの圧倒的な愛そのものである、ということだ。この愛に触れた以上、パウロは今までのパウロではいられなかった。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という確信に生きざるを得なかったのである。かつては自己充足感を得ようとする不順な動機で生きていたかもしれない。しかし、そういう自分は既に死んだ。今は、神に新しい命を与えられ、新しい使命を持たされて生きている。その新しい使命は、和解の務め、神と人を和解するように導く聖霊に仕える働きにつくことである、という(19節)。

改めてここで神を信じる、信仰を持つことの意味を考えてみよう。そこには少なくとも三つのことがある。一つは、神を認め、神との新しい関係に入れられることである。神を認める前は、ひたすら自己肥大の世界の中で私たちは生きていた。他者を思いやることは教えられていても、他者との比較の中で結局自己を選び取って生きているのが私たちである。しかしそこに、他者でも自分でもない神を認め、神に仕える人生の選択肢が出てきたのである。

次に、イエスを認め、イエスの十字架を受け入れた時から、私たちには新しい実質的ないのちが与えられた。永遠のいのちは、単に長いいのちなのではない。永遠の神と共に生きることで、私たちは、世の中のことをもっと大きな視野から見ていくようになる。他人にもっと大きな気持ちで接するようになるだろう。永遠の神と共に生きることは、私たちの人生に豊かさと深みをもたらすのである。

最後に、パウロがここで強調していることであるが、私たちには新しい人生の目的が与えられる。自己充足、自己実現ではない、神の愛を語り伝える、和解のことばを持ったキリストの使節として生きる目的である。神を知ることにより、この世界を義と愛と聖さによって支配される神にお仕えする素晴らしい特権に自分が召し出されていることを理解するようになるのである。

かつてパウロは、キリストを人間的な標準で見ていた。つまり、回心前のパウロは、イエスを偽キリストと見て、その信奉者は根絶されなければならないと見ていた。しかし、キリストの愛に照らされて、事実は逆であったことを悟るようになる。イエスはあわれみ深い救い主であると悟るようになった。った。事実、パウロは、このイエスのあわれみをうけて、使徒と任じられた。そのキリストの愛が、深く彼を捉えて離さないのだ。

キリストは、パウロに違反行為の責めを負わせなかった。つまり過去の罪の罰を彼に課すことはなかった(21節)。これは重要なことである。しばしば、何か不幸なことがあると、それは過去の特定の罪のためだと考えてしまうところが人にはある。神の前で罪滅ぼしをさせられているのだ、と。しかし、神はそのような細かい方ではない。神は、私たちの罪をいつまでも覚えていて責めるようなことはされない。というのも、キリストにその罪の罰のすべてを負わされたからだ(21節)。これは大変重要で、素晴らしいメッセージである。無駄にしてはならないものである。キリストが、神ののろいを私たちに代わってすべて受けるようにしてくださった、ということは、逆に言えば、私たちが神の義を得る結果をもたらすことである。キリストは、神との関係を正しくし、神ののろいではなく祝福を受けるようにしてくださった、ということである。キリストの十字架の業の素晴らしさ、その愛の深さに、パウロは心を馳せている。そして自分が、今度はその務めに任じられている、と言う。

私たちには和解の務めが委ねられている、新しい人生の目的が与えられていることを覚えて、歩ませていただこう。