コリント人への手紙第二8章

1-7章に渡り、パウロは、コリントの教会の人々と和解が成立し、信頼関係が回復され、宣教における苦難を共有する思いで一致することができたと確信している(7:14-16)。そこでパウロは、8章において、宣教協力の一環としての、緊急援助について語ろうとするのである。

エルサレムでは、クラウデオ帝治世下(AD41-54年)に飢饉が起こり、大きな打撃を受けていた。こうした事態に、異邦人たちによるアンテオケ教会が援助を開始していた(使徒11:27-30)。かつてその援助を持ち運んだパウロは、以後、ユダヤの貧しいクリスチャンに対する醵金を募り、支え続けることを心に留めてきたのであろう。実際パウロはその後のエルサレム会議において、異邦人への使徒としての使命に立ちながらも、ユダヤの貧しい人たちをいつも心にかけてきたことを明言している(ガラテヤ2:6-10)。そしてコリント人への手紙第一を書いた時点(AD55年頃)までに、彼はガラテヤの諸教会からの援助を求め回っている。コリントの教会の人たちが、その務めに加わりたいと願うようになったのはこの時のようである(1コリント16:1-4)。しかし教会内の混乱でその願いは途絶していたようだ。コリント人への手紙第二を書いた時点(AD56年)では、パウロはマケドニアの諸教会(ピリピ、テサロニケ、ベレヤなど)と接触しており、彼らもまたその恵みある務めに加わりたいと願ったようだ。そこでパウロは、マケドニアの諸教会の大いなる模範を取り上げ、コリント教会の人々がかつて志し、熱意を持ったことについて実行するように促しているのである(6、10、11節)。

背景的には、緊急援助と思われるものであるが、このように勧めることばの中に、献金についての大切な考え方が示されている。

1節、まずパウロは、マケドニアの諸教会に起こった、満ち溢れる喜びについて語る。彼らは福音に与る大いなる喜びに押し出されて、惜しみなく献げる者とされた。彼らは余裕があったわけではない。むしろ、彼らは激しい迫害の中にあり、極度の貧困を経験していた。にもかかわらず、惜しみなく施したという。おそらくそれは、額の問題ではなく、自ら進んで、力に応じ、力以上にささげる、霊的な喜びを語っているのだろう(2節)。しかし同時に、それは期待以上の、十分な内容のものであった、とされる(5節)。それは献金の基本である。

また彼らの献金は、恵みの施しではなくて、恵みそのもであった(4節)。献金そのものが彼らにとって祝福であり、特権であった。さらにそれは、自分自身を与える愛の行為である(5、6節)。献金が信仰のバロメーターと言われるのは、こういう点なのだろう。つまり献金は、その人の霊的な成熟度を一面で表している。コリントの教会は、賜物が豊かな教会であった。異言を語る人、奇蹟を行う人、癒しを行う人。教育を行う人、様々な能力のある人で溢れていた。しかし、いざ献金となると、その豊かさとは裏腹の弱さがあった。霊性は総合力である。ことばにも、行いにも、奉仕にも、献金にも、祈りにも、聖書を学ぶことにおいても、あらゆる面で、全体的に成熟することが大切なのである(7節)。

パウロは再び繰り返す、献金は、愛の真実さを証することであり、キリストの謙卑の実践に従うことである(9節)。そして、互いに不足を補い合う、愛の配慮による分かち合いであり交わりである(13、14節)。それは、全教会的な愛のわざに加わることを意味する。

そして最後に誤解のないように、平等性の原則を語っている。コリントの人々だけが負担を負い、他の人々が楽になる、というわけではない。つまりキリストの謙卑の模範に従うことは、余裕のある者が犠牲を払って極度に貧しくなることを勧めているのではない。その原則を明確にするために、荒野のイスラエル人皆が、天のマナを必要に応じて集めたように、必要が満たされることの平等性を強調している。つまりより余裕のある者が欠乏している者たちの必要を補う心を持つことが大切なのである(15節)。

さて16節から、パウロは募金を受け取るためにコリントから派遣される三人の兄弟たちの推薦を書いている。名前が明示されているのはテトスのみであり(16-17節)、他、「福音の働きによって、すべての教会で称賛されている兄弟」(18-19節)、そして「多くのことについて熱心である兄弟」(22節)である。パウロはこのようにして、献金が公明正大に取り扱われるべきことに注意を向けている。確かに惜しみなく献げられる献金が、正しく管理されることは大きな責任であった。だから献金は、透明性のある取扱いによって、複数の人たちによって管理されるよう配慮されなければならない。パウロは言う。テトスは同労者である、と。兄弟たちは、諸教会を代表し、キリストの栄光のために働く使者である、と。献金を扱う人は、批判の余地のない(20節)それなりの人物が推薦されるのであって、やりたい人がやる、というわけではない。また、繰り返される「熱意」「熱心さ」にも注目しておこう。パウロは、奉仕者としての推薦の根拠にその人の熱意を見ていることに間違いはない。熱意は、物事をやり遂げる原動力でもある。その人が何に動かされているのか、主の働きを完成させたいという熱意は、何よりも心に留めるべき評価基準と言えるだろう。

献金の考え方と献金の取り扱われ方、これが初代の教会で確認されたことの意義は大きい。今日もこの原則はしっかり守られ、いよいよ教会が良き証をなすものでありたい。