コリント人への手紙第二10章

コリント人への手紙第二は、大きく三つに分割されることが多い。

1)パウロが自分の務めについて説明している部分(1−7章)

2)エルサレム教会の貧しい信者のための献金を訴えている部分(8−9章)

3)パウロが自分の使徒権を弁護している部分(10−13章)

今日から見ていく第三の部分は、語調も内容も、これまでのものとはかなり違う。これまではコリント教会の兄弟姉妹たちに対して優しいことば、慰めのことばをもって語ってきたが、ここから皮肉や批判、さらには厳しい攻撃的な口調が垣間見られる。このため、この部分は他の手紙の一部、つまり最初に書かれた「厳しい手紙」であった、あるいは更なる第五の手紙であったのではないか、と考える人たちもいる。しかし、語調の違いは、パウロが想定する対象の違いと考え、同じ手紙の一部として読むことができるだろう。つまり9章まではコリント教会のメンバー全体に語ってきたのであるが、10章以降は、この教会に入り込んで、無垢な信徒を惑わすユダヤ主義的偽教師を意識して語っていると理解できる。

実際パウロは、コリントの信者たちが戒規を執行して、悔い改めたと思われるかの人物に対して愛を示し、彼の復権を図るように促した後で(2:7)、パウロ自身との交わりの回復を求めていた(7:2)。その回復は、既に達成されたのであろう、だから献金の約束を実行するようにという勧めも忌憚なく語ることができたと思われる(9:5)。このようにパウロがコリントの信者たちとの関係を回復し、彼の権威が再び受け入れられたのを見た、反対者たちは、パウロの使徒性とその素性について異議を唱えて正面攻撃をしかけていたのであろう。そこでパウロは皮肉、非難、そして厳しいことばを使って、自らの使徒権についてさらに弁護せざるを得なくなった、というのが残りの3章になる。

10章は、具体的にパウロがどのような批判を受けていたのかがよくわかる箇所である。

1)彼は遠く離れている時にのみ大胆であった(1節)。つまり弱虫だと言われた。

2)肉に従って歩んでいる(3節)つまり肉的で、打算的、人間的だと言われた。

3)さえない顔つきで、話しぶりもなっていない(10-11節)。

4)見せ掛けがどうであれ、彼らに比べて劣っていた(12-15節)実力がないということだろう。

コリントの教会の人たちは、彼らの批判に惑わされて、一緒になってパウロを攻撃した。そこでパウロは自らの宣教の正当性を擁護していくのだが、その言い方は大人げない。だが、そこにストレートにパウロの考え方の原則が述べられている。
たとえば肉的だとする批判について、パウロは、そのように見えたとしても、実際肉に従って生きてはいない、と明言する。クリスチャンの戦いは霊的なもので、人間的な打算で進められるようなものではないし、決して神の栄光を現すことはできない。

7節から、パウロは、自分を攻撃する人たちに直接的に答え、二つの批判に応じている。一つは、彼らは自分たちこそがキリストに属する真の使徒であると主張し、パウロはそうではないと攻撃した。しかし、パウロは、自分の使徒性を主張し、その権威が、コリントの教会を建てあげるために与えられたものであると明言する(8節)。そういう意味では、パウロは、「主の命令」という言葉すら用いて、誰にでも服従を期待した(1コリント14:37-38)。しかし一方で、自分の善意から出た助言や、言わざるを得なかったことを注意深く区別している(2コリント11:17)。つまりパウロは良識をもって自分の使徒的権威を主張している。

次の批判は、パウロは、手紙だと大胆に脅迫的に書いてくるが、実際に会ってみると弱々しくて、まるで権威がない、である(9-10節)。パウロは、伝承によれば、小柄で、頭ははげ、足も曲がり、体はずんぐり、眉はつながり、鉤鼻であったとされる。少なくとも反対者が敬意を抱くような外観はしていなかったようだ。さらにパウロは和解的であろうとして誤解を受けた。しかしいざ対決すべき時には対決する、という覚悟を示している。

だから12節以降は、攻撃に転じ、自己推薦しているものを皮肉って、そういう者たちを相手にしようとは思わないと断言する。成功を誇ることは、自己推薦をよしとすることである。しかし、私たちの働きの成功は、神のみこころによるのであり、失敗もまた神の深いみこころの中に導かれているのであり、成功即良い働き、失敗即悪い働きというわけではない。「神が私たちに割り当ててくださった限度の内で」全力を尽くすことが大切なのであって、一々その成果に一喜一憂すべきではなく、時が良くても悪くても、絶えず主を誇ることこそ正しいことである。そして働きの評価については、自己推薦的に語ることも、他人の好評によるのでもなく、主の推薦があることを覚えなくてはならない。それは、今の時に明らかになることもあるが、そうでないこともある。主が来られるまで先走って評価してはならないのであり、ただひたすら、主の前に今日も忠実であることが、私たちのすべきことなのである(1コリント4:1-5)。