ガラテヤ書4章

3章では、信仰と律法が論じられていた。福音の中心は神の約束を信じる信仰にある。律法を守ることではない。律法には限界があり、その性質上神ののろいに閉じ込めようとする。しかし、律法は、私たちを打ちのめすためにあるのではなく、キリストに導く養育係であった、と言う。パウロは4章においてこの養育係としての律法を、後見人、管理人と言い換えている。つまり、養育係にしても、後見人、管理人にしても役目を終える時が来るのだ。

ことに後見人は、親権者がいない(たとえば死んでいる)時に定められるものであるが、遺言に定められた期日が来れば、後見人が見守っている子どもは、もう相続人ではなく、財産の所有者になる。

神があらかじめ定めた「時が満ちて」もはや後見人も管理人も、養育係も不要な時が来た、いや来ているのだ。あなたがたは、今やキリストによって、父(神)の財産を自由にできる所有者という意味での相続人なのだ、と言っているのである(7節)。

しかし、そのような真理に導かれながら、なおもまだ何もわからない子どものようであるのか、とパウロはガラテヤの人々に問いかける。修行意識の強い日本人も同じようなものであるが、通常人は、神が人間のために何かをしてくれたなどと言うことは考えもせず、人間が神のために何かをすることが大事であると考えている。ユダヤ人は、特定の日、月、季節、年を守り、些細な戒めを守って、それによって神に喜ばれ、神の愛顧を受けると考えるのが常であった。しかし、それでは、神の子ではなく神の奴隷なのである。相変わらず、後見人の元にあって、神の素晴らしい所有が与えられることを待ち望んでいるのと同じである、と。

むしろ、兄弟たち、とパウロは呼びかける。私のようになってほしいと。私を見て欲しいと。神が多いなるあわれみをもって、猛進していた自分を捕らえた私を見て欲しい、と。救いは何かをすることではなく、神のあわれみがすべてである。そしそのあわれみは、キリストの十字架にことごとくあらわされているのである。神が私たちのためにしてくださったことに目を注ごうではないか、ということである。

そうでなければ、私たちは、「弱くて貧弱な」信仰理解に逆戻りしてしまう(9節)、私が労したことも無駄になってしまう(11節)、そして、あなたがたがかつて喜ばせた指導者を拒絶してしまうことになる(16節)という。パウロとガラテヤ人の間には、私たちが入り込むことのできない、親しい時があった、そんなことを思わされるところである。

ともあれ、パウロは、時至り、今私たちは神の財産の所有者であることを語る(1-8節)、逆戻りしてはならない状況にあることを語る(9-20節)、そして最後に、言葉を尽くして、歴史的な比喩を使い、もう一度、ガラテヤの人々が肉の努力ではなく、御霊によって産まれた自由の子であることをわからせようとする。

つまり、アブラハムの子、イサクとイシュマエルの例をあげる。アブラハムは、神の約束を信じる選びの民とされた。しかし、神の約束はなかなか実現せずに彼はどんどん年老いていった。そういう中で、彼は神の約束を人間的な知恵と努力で実現しようと、女奴隷のハガルによってイシュマエルという子を設けたのである。しかし神の計画は違っていた。その後、アブラハムもその妻も、年齢からして完全に生殖能力という点においては死人同然となった。しかしその死せる体に、神の恵みによる子イサクを宿したのである。イサクは、人間的な努力ではなく、まさに神の恵みの子、自由の子であった。イシュマエルとイサクの根本的な違いは、神の約束が実現されることについて、人間の努力によってそれらしく実現するか、神の力によってまことに実現するかにある。救いは獲得するものではなく、受けるものである。神の祝福も、私たちの努力によって得られるのではなく、ただ神のあわれみを受けることにある。すでに、キリストにある者は、神の子とされ、神の祝福の中に入れられ、神の所有を受けている。信仰によってその事実に立たせていただこう。