エペソ人への手紙2章

パウロは囚われの身であった。それは不名誉なことであったはずだが、パウロはそれをイエスのご計画による「務め」であるという。そもそもの事の発端は、パウロが、異邦人を神殿に連れ込んだと誤解されたためであった(使徒1:27)。怒りにかられたユダヤ人に、パウロは殺されそうになっていたところを、ローマの千人隊長と兵士に救い出されたのであるが、パウロは弁明の機会を与えられ、自分が救われたのは異邦人の救いのためであると語り、益々ユダヤ人を刺激した。結果パウロは、再び群集の暴力にさらされ、千人隊長は、パウロを保護するために投獄したのである。その後の裁判においても、パウロは、変わらずキリストにある罪の赦しを証し、キリストによって異邦人のための使徒として召されたことを頑なに証しし続け、ついに、ローマへと護送されることになり、ローマの獄中につながれることになる。これら一連の出来事についてパウロは「務め」であると言う。今獄中に入れられ、苦しめられているが、だからといって惨めに思うことはない。というのも、それは、キリストにある罪の赦しを異邦人に告げ知らせる使命を果たすための苦しみだというわけである。

次に3節。パウロは、「奥義」ということばを取り上げる。奥義は英語でミステリー、しかし聖書で言う奥義は、別に神秘的なものでも不可解なことでもない。キリストにあって、ユダヤ人、異邦人の区別なく全人類が一つにされることを言う(6節)。救いは、個人的な魂の救い以上のものである。キリストを通して、新しい関係が結ばれることである。この奥義はすでに旧約聖書において預言され、キリストにおいて現実的に語られるようになったものだ。宣教は、人々をキリスト者に回心させる以上の目的を持つ。多様性の一致を目的とする。

そこでパウロの第二の祈りがささげられる。第一の祈り(1:15-23)は、霊的な祝福を知ることを祈り求めていたが、第二の祈りは知っていることを活かすことを求めている。これらの祈りは、他の獄中書簡の祈り(ピリピ1:9−11、コロサイ1:9−12)と同様に、霊的な事柄を祈っている。パウロは、内側が整えられれば、外側も整えられると心得ていた。

まずパウロは「ひざをかがめて」嘆願する(14節)。祈りのための特別な姿勢があるわけではないが、パウロは、神の前に遜る心の姿勢を明確にしている。そして四つの事柄を祈っている。第一に、強くしてくださいますように(16節)。クリスチャンの生活に御霊の力がますます強く現されることを願う。そして第二にキリストが住んでくださるように。キリストがあなたがたの心の中でくつろいでくれるように、と祈る。表面的ではない深い関係性を祈っている。第三に、愛を知ることができるように(18-19)。人知をはるかに越えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることを祈る。最後に満たされるように。「知る」ことと「満たされる」ことは違う。それは、理解したことを自分のものにすることである。

最後の祝祷には、パウロの神の力に対する確信がある。神がイエスキリストを死人の中から活かしたこと、復活させる力を持つこと、それは、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施す力となる。そうであればこそ、私たちは様々なことに豊かな望みを持つことができる。

エペソ人への手紙1章

神の与える霊的祝福は、二つの結果をもたらす。一つは神との関係の回復である。かつて私たちは霊的に死んでいた。霊的なことがわからず、霊的な事柄に喜びを持つことができないでいた。霊的に病んでいたのではない、死んでいたのである。だから、私たちは、神との関係に生きることもできないでいた。結果、私たちは世の流れに流されるままに生きていた。死んだ魚が川に流されていくように、私たちもこの世の流れ、よい家に住むとか、よい車を買うとか、よい学歴を身につけるとか、よい地位に着くとか、そんな価値に従って生きる毎日であった。また、サタンに従って生きていた(2節)。アダムのように、「神のようになる」と自尊心をくすぐるサタンのことばに惑わされて生きていた。最後に肉の欲の赴くままに生きていた。こうして私たちは、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(3節)となる。

しかし聖書は驚くべきことを語っている。本来なら見捨てられたはずの、弱く、不敬虔で、罪人であり、敵ですらあった私たちが神の大きな愛によって愛された、という(6節)。その愛はイエスの十字架にはっきりと示された。また神は、私たちを生かしてくださった(5節)。つまり罪の中に死んでいた、私たちに霊的な命を与え、神との関係を回復させてくださった。さらに神は、私たちを天に迎えてくださった。神は私たちにこちらへいらっしゃい、一緒に座りましょうと、私たちに親しみを示してくださった。それは、神が私たちを友としてみなしてくださった、ことに他ならない。最後に、神は私たちを守ってくださる。神の究極的な目的は、教会が永遠に神の恵みを喜ぶことにある。その上、神は私たちによい行いを備えてくださった(10節)。クリスチャンになるというのはいい子になることではない。結果的にいい子になることはある。祈り、賛美、献金、奉仕、慈善、あらゆるよい行いは、神が備えてくださるものである。

そのような神との関係の回復を前提に、次にパウロは、人間関係の回復があることを語る。まず、私たちは、ユダヤ人からは無割礼の者と呼ばれるような、つまり神とは関係のない人生を生きていた。たとえ宗教を信じていたとしても、実際に神を知っているわけではない。信仰の中心を失った者である。しかし、かつては遠く神から離れていた私たちも、今はキリストによって神に近くされている(13節)。キリストが私たちと神との関係を回復してくださった。そして同時にキリストは、人と人の敵意の壁を取り去った。ユダヤ人も異邦人もない。ただキリストにあって一つの民であり、一つの平和を享受する(16節)。

私たちの世界は争いに満ちている。職場、家庭にも争いは絶えない。そして実は教会にも争いがある。心の安らぎの場、平安の場である教会に争いがあったりする。パウロの時代もそうであった。だから手紙が書かれた。パウロの宣教により救われる者が多くなると、衝突も多くなった。しかしキリストにあって救われた者は、その衝突を乗り越える力を持つ。キリストにあって私たちは家族であり(19節)、主にある聖なる宮だからだ(22節)。教会の建物が聖なる場所なのではない。私たちの集まりが、神が喜んで住んでくださる場所である。神の助けにより衝突を乗り越え、神の祝福を受ける人間関係を実現していこう。