ピリピ人への手紙1章

パウロは、エペソ人の手紙において、霊的な価値や、関係について強調したが、この手紙ではその具体的例を示している。

まず、パウロは、福音宣教における交わりを感謝している。6節「あずかってきた」の原語はコイノニアである。直訳すれば、「福音を広めることにおいて交わりを保ってきたことを感謝しています」となる。使徒の16:12に描かれたピリピでの宣教を通して教会が始められた日より、ピリピの教会の信徒はパウロと一緒に宣教に参加してきた。つまり彼らはパウロの働きに興味を示し、福音を告げ広める働きを助けるために協力してきたのである。彼らはただ福音を受けてそれを喜んでいたのではない、あるいはパウロとの気楽に楽しい時を持ち続け、親しくしてきた、というのではない。むしろ主の福音が広まる働きのために喜びをもって心を配り、助け、力を注ぎ、犠牲をも厭わず、それこそ苦楽を共にしてきたのである(4:3、2コリント8:1-5、9:1-5)。パウロの感謝はそのようなピリピの人々に向けられていた。

ピリピの教会は、愛の教会で、宣教に熱意があり、聖書的な理解もしっかりとした教会であったようだ。しかしそれでもパウロは、ピリピの教会のためにさらなる霊性と成長の豊かさのために祈っている(9-11節)。というのも教会の完成は、神の助けによる霊的な働きだからだ。10節、真にすぐれたものを見分けることができるように、別訳の聖書では、「異なっているものを区別する」ことができるように、とある。人間の迷いやすい状況を、パウロは考えているのだろう。悪魔の働きから、私たちの宣教の交わりが守られていくように、これはリーダーの祈りである。これはイエスが主の祈りの中でも教えてくださったことである。キリスト者がキリスト者らしく、教会が教会として建て上げられることを願う祈りである。

12節、ピリピ教会の人たちは、パウロが投獄されたことを知り、パウロのことを心底心配していた。当時、投獄されることは死を意味した。パウロは、家族のように自分を心配するピリピの教会の人たちの気持ちをよく理解し、安心させるために、いくつかの助言をしている。

一つは、視点を変えて、パウロの不幸によって、実は福音が前進していることに注目するようにという。心配するな、むしろ、私の苦しみによって福音が前進させられていることに注目しよう、そしてそこに平安と喜びを抱いて欲しいというわけである。それまでキリストの福音は、貧しい人たちを中心に広がり、なかなかローマの支配層までには広がらないでいた。ところが、パウロの投獄を機会に、今や、親衛隊の人々、つまりローマの軍隊にも福音が広がった、これはパウロの喜びだというわけだ(18節)。そういう意味では、私たちが何か痛みを負っている時に、痛みばかり心を奪われていると何もわからずにいることがあるものだが、神の目線で大きく物事を見ていくなら、神の霊的な祝福があることに気づかされるのである。

続いてパウロは、痛みの意味を解き明かす(20節)。痛みの捉え方をはっきり示す。痛みに対する態度それ自体を変えていくことが、私たちの霊的祝福そのものである。キリストの素晴らしさが現されるのなら、今の痛みなど痛みではない、と言う。また、キリストのための苦しみをも賜った(29節)、とも言う。イエスは、私たちの救いのために十字架という苦しみを負ってくださった。もし、私たちが本当にイエスの弟子であるなら、私たちも十字架の苦しみを負う者なのだ、というわけだ。確かに私たちはイエス以上にはなれないが、イエス様以下になることもできない。十字架精神をきちんと持って、キリストの痛みを負うことができる、キリストのために損ができる、という人がいるからこそ、教会の働きは成り立っていく。家庭も、会社でも同じである。置かれた場にあってちゃんと痛みを負うことのできる人が育っていくことが大切だ。