ピリピ人への手紙2章

2節「心を合わせ、思いを一つにし」とある。ピリピの教会には分裂の問題があったようだ。完全な教会はない。人が寄り集まるところ、必ず何か問題は起こる。だが、実際に衝突があったらどうなるのだろうか。そうした問題は簡単には解決しないだろう。何かあるたびに蒸し返しが起こって、いつまでもぐちゃぐちゃした関係が続いていく。それは耐え難い状況である。人によってはこんな教会は教会ではない、と見捨ててさっさと出て行く人もいるかもしれない。しかし、教会とは、自分を含めた存在であり、そんなに簡単に見捨てられるはずのものでもない。大事なことは、そのような状況の中で、「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがある」信仰的な経験を持っている人が、「心を合わせ、思いを一つにする」信仰的に対処していくことなのだろう。そうであればこそ、教会も質的に成長していくのである。

そこで、パウロは、ピリピの教会の人たちが、霊的に成熟した大人の考え方を持っていくようにと進めている。その一つは、自己中心さから脱却することである。しかし自己中心な人はそもそも聞く耳がないから、自己中心であるが、そんな人に向かって自己中心をやめましょう、他人のことに気遣いましょう、など馬の耳に念仏のようでもあるが、敢えてそのように書くパウロに、私たちは、パウロの忍耐強い親心を教えられる。

さて、パウロがあげる第一の例は、キリストである(5-11節)。本当は神であるのに、神であるあり方を捨てて、人と全く同じようになられた。そして十字架の死にまで従われたキリストの例である。キリストの弟子であるなら、このキリストの模範に教えられることだろう。

第二の例は、パウロ自身である(12-18節)。パウロは、自らがそうしているように、つぶやかず、疑わずに、忠実に働くように勧めている。パウロは、単に自己実現の応援をしているわけではない。1章で既に述べたように、ピリピの教会は宣教的な教会であろうとした。パウロの宣教に協力し、その困難を分かち合った。大切なのは宣教的教会であろうとした志を立てさせてくださり、事を行わせてくださるのは主であるのだから、この教会の内部的な危機においても、主がよきに導いてくださるだろうという信仰である。宣教的教会であることを追求し続けることである。そのためには、様々な苦難があっても、物事を途中で投げ出したりしないように、というのである。宣教には本当に多くの苦難がある。外の人に受け入れられないばかりか、教会の中が色々ともめて疲れてしまうこともある。それでもつぶやかず、疑わず、教会を成長させ、完成させてくださる主についていきましょう、ということである。それは、私たち自身の救いの完成に還元されるものだからだ。

第三の例は、「子が父に仕えるようにして」パウロと共に奉仕をしてきたテモテの例である(19-24節)。先輩の兄弟姉妹と共に、心を合わせるというその模範が役に立つ人もいるだろう。

最後に、パウロはエパフロデトの例をあげる(25-30節)。エパフロデトは、ピリピの教会の人たちが、牢獄にいるパウロを心配し、パウロの身辺の世話をするために、教会から代表として送り出された人物であった。彼は、パウロの世話をするはずであったがピリピにつくや否や病気になり、パウロの手を煩わせることになってしまったのである。面目丸つぶれの思いでピリピの教会へ帰らねばならないエパフロデトの気持ちを考えたのであろう(29節)、パウロは、危険をかして自分のもとに来てくれたこと自体が励ましであり、またよいことであったと語る。

人間の働きは、結果だけではなくて、志を評価することも大切である。失敗という結果にこだわるばかりではなく、それに伴う様々な苦労も認めていくのである。それはたとえ失敗に見えることであっても、その失敗の中で人間は色々なことを学び訓練され、将来への教訓を得ているはずだからである。神は、そういう人たちの働きを、ちゃんと見てくださっていて、本当に苦しんでくれた、支えとなってくれた、と感謝と喜びを表しているのである。