ピリピ人への手紙3章

ピリピの教会は、パウロが感謝を述べるように、神に志を与えられた宣教的な教会であった。彼らはいつもパウロの福音宣教に関心を抱き、パウロの宣教の働きを経済的にまた人的に支えたのである。そのような宣教的な教会というのものは簡単に育つものではない。まさに神が成長させ、神が志を与えて建てあげてくださった教会である。確かに考えてみれば、ピリピの教会がスタートしたのも、神がパウロに上から志を与えられたがゆえにできた教会であった。パウロが、第二回伝道旅行の際に、第一回伝道旅行の宣教地を再訪し、これから先どこへどのように進めばよいか迷っていた時に、神が上から、マケドニヤ人の幻を与えてくださったのである。そのようにしてパウロは、志を与えられピリピへ赴き、ルデヤに出会い、そこからピリピの教会がスタートした。神に与えられた志によって始まった教会が神に与えられた志によって成長する教会となった。ところが、2章では、そのようなピリピの教会に内部分裂があったことを伺わせる勧めがある。「心を合わせ、思いを一つにして」(2節)パウロは勧める。だが、これもまた神がピリピの教会の皆の心に一致したいという志を与えてくださって解決していくことだろう、とパウロは考えたであろう。

この3章においてパウロが、悪い働き人(2節)と語るのは、肉体だけの割礼の者のことである。そういう者たちに気を付けるように、という。このピリピ人の手紙は、キリスト教がユダヤ教から独立し、一つの新しい宗教になっていく過程で書かれている。パウロは、キリスト教こそが旧約聖書の信仰を正統に継承する宗教であり、ユダヤ教は、旧約聖書信仰の逸脱であると考えていた。確かに、当時のユダヤ人は、割礼(男性の性器の包皮を切り取る儀式)を受けていれば、アブラハムの約束の民、神に選ばれた祝福の民であると考えていたが、大事なのは肉体を傷つけるか否かではなく、心が新しくされること、心の割礼を受けることである。人間的なものではなくて神にのみ信頼することだ。信仰の人こそアブラハムの約束の民なのであり、聖霊によって神の力によって新生している、変えられた生き方をしていることが、正統な信仰である、というわけだ。

つまり神に志を与えられ、成長していくためには、8節で語っているように、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさにしっかり立つことが大事なのである。パウロは、自分の出身、家柄、経歴を語りながら、そんなものは何の役にも立たない、キリストの素晴らしさに比べたら、塵芥である、とこき下ろしている。信仰というのは、最終的には個人と神様との結びつきの問題である。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさに向かい合っている、そこが出来ているかどうかである。そういう中から起こってくる喜びと遜りに生きている、それが教会の成長と素晴らしさにもなっていく。

そう意味で、成長する信仰は、日々自分の内面を見据える戦いである。10節、キリストを復活させた力を、私たちが本当に信じるならば、クリスチャンは、いつでも物事を肯定的な態度で前向きに受け止められるし、その結果、状況に左右されない喜びをいつでも持っていられる、ことにもなる。しかしそうなりきれないところが私たちにはあるのだが、そここそ訓練されなくてはいけないところである。大切なのは、私たちが自らの不信仰と戦うことだ。あの人この人ではなく、自分自身の問題に目を向けることだ。神の前に死人のような私たちの霊的状態と戦うよりも人間的なものにより頼みやすい私たちの心と戦うことである。それは、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む、戦いである(12節)。私たちがこのようにして自分の不信仰と戦わないならば、時に、神を信じ、神を愛していると言いながら、実際には神の敵になってしまうのである(18節)。神よりも自分の力に頼むならば、それは神を信じているとは言わないからだ。自分の力に限界を感じて、もはや何もできないと落胆するならば、それも神を信じていることにはならない。神を信じるというのは、必ず神がよき結果をもたらしてくれると、待ち望むことなのである。

こうしてピリピ書の内容は、エペソ書と深く関連する。つまり、エペソ書では私たちには霊的な祝福がある、ということが言われていた。それは具体的にどういうことなのか。パウロはピリピ人の手紙の中で、語っていく。①キリストを得る(3:8)、②キリストを知る(3:10)、③キリストの中にある者と認められる(3:9)、④キリストの復活の力を知る(3:10)、⑤キリストの苦しみにあずかる(3:10)、⑥キリストの栄冠を得る(3:14)、⑦国籍が天にある(3:20,21)、パウロは、エペソ書にも通じるキーワードを並べていく。しかしこれらは皆、ピリピ教会の内部分裂の解消の根拠として語られるものである。宣教的教会が、真にキリストにあって内部においても整えられていく、そこにこそ、真の霊的な祝福がある。霊的な祝福に目を開かれた一人一人が、聖書が語るとおりに純粋に神の前に傷もしみもしわもない、愛と喜びと義に満ちた者として変えられていく、そこに真の霊的な祝福がある。神の命を味わうすばらしさへと今日も導いていただくこととしよう。