コロサイ書1章

パウロは簡単にあいさつを述べた後、コロサイの教会を高く評価し、神に感謝している。何を感謝しているのか。コロサイの教会が愛に溢れた教会であることだ(4節)。しかも注意すべきことは、彼らの教会は、5節にあるように愛は愛でも天にたくわえられてある望みに基づく愛、言い換えれば福音に基づく愛に溢れていたという。あなた方の間で福音が実を結んでいる、そのことに感謝だ、というわけだ。その福音は、エパフラスが伝えたものだった(7節)。

大事なことは、福音が実を結び成長している、ということだろう。教会の中心にあるのは、福音である。福音が実を結ぶか否かが一番大事な点である。教会成長とは、福音の成長に他ならないのである。だから福音理解が教会にとって全てでもあり、基本でもある。

日本の教会は小さく、常に成長を求められてきた。そういうわけだから、そこでしばしば、経営的なセンス、成果主義的成長理論が持ち込まれることもあった。しかし、大事なことは、教会に福音が持ち込まれ、語られ、生きているかである。しかし、ガラテヤ人の教会がそうであったように、福音ならぬ他の福音が持ち込まれ、語られ、幅を利かせていることが多いのである。

9節、パウロは祈り求めている。パウロは、霊的な知恵と理解力によって、神の御心についての知識に満たされますように、と。福音には中身がある、その中身の高さ、広さ、深さをいよいよ理解し、いよいよ豊かに実を結ぶように、ということだろう。実に、私たちが持つ福音は、私たちの人生に対する解である。あるいは私たちが生きる社会のあらゆる問題に対する解である、という確信を持ちたいものだ。神学をすること(Doing Theology)が言われるが、それは、私たちの福音が、自分自身のあるいは隣人の課題にいかなる解を持っているかを考え抜くことに他ならない。それは、祈りと、みことばと、そして自分自身あるいは隣人が持つ課題との対話の中で、忍耐、寛容、そして喜びの営みの中で見いだされるものである。「忍耐」ギリシャ語ではヒュポモネ、ある事柄に耐える能力ばかりか、耐えてそれを栄光あるものに変える力を意味する。聖霊が与えてくださる忍耐力である。寛容は、ギリシャ語では、マクロトゥミア。ヒュポモネが「物事に対する忍耐力」であるとすれば、マクロトゥミアは、「人に対する忍耐力」を意味する。そして「喜び」は、あらゆる困難な状況の中で、晴れやかで輝かしい心をもつことができることだ。

13節より、パウロは、福音そのものを明確にしようとする。それは、暗闇の力から救い出されること、そして、愛する御子の支配の中に移されることに他ならない。ここに万人に対する希望がある。福音は、あらゆる暗闇の力からの救いを語る。そして、福音は、御子の恵みの支配に移されていることを語る。これが教会の中で中心的であること、これが教会の成長となっていることが重要なのである。

私たちの確信は、キリストは「見えない神のかたち」(15節)であることだ。イエスは、単に神を指し示す偉大な教師でも、神に劣る天使のような存在でもない。イエスは、何一つ欠けたところがない完全な神である(19節)。さらにキリストは万物の造り主である。詩編89:27を見れば、「最初に生まれた」は、約束のメシアを意味する称号である。そこに時間的な順序の意味はなく、特別に名誉ある存在であることを示すために使われている。つまり、キリストは創造の初めであり、創造の終わりであり、造られたものすべてを支える力であるということだ。またパウロは、キリストは教会のかしらであると主張する(18節)。キリストと教会は一体であり、イエスの支配を受けている。つまり、教会は、キリストのことばを命令として受け止め、キリストのことばを生活の規範として受け止め、キリストのことばに沿って行動する。

最後に、パウロはキリストの死について語る。キリストの十字架の死は、神が、私たちの罪のために痛みを味わったことを証している。十字架は神の愛の決定的な証拠である。その愛の目的は、私たちが神と和解し、生かされるためである。パウロは、キリストを奥義であるとする。旧約時代には隠されていたものが、今や明らかにされた、その十字架愛に拘る歩み、神であり創造者であり、救い主であるキリストへの拘り、これがキリスト教である。

このキリストへの成熟へと向かわせる、これが、自分の務めであり、福音に仕えるしもべの責任である、とパウロは語る。そして、キリストの苦しみに不足はない。けれども、今なおとりなしてとして、神の右の座にあって苦しんでおられるキリストと共に生きることは、私たちしもべの責任でもある。パウロは、キリストの力によって労苦しながら奮闘する、という(29節)。実に、キリストと共に生き、キリストの素晴らしさが、豊かに合わらされる教会の建てあげにこそ、心を注いでいきたいものである。