コロサイ人への手紙3章

キリスト教信仰は、知性主義でも、律法主義でもない。それは、ある意味で、霊的なダブルのけいけん(経験と敬虔)主義である。キリスト者はバプテスマを受けることによって、死んで新しいいのちによみがえっているのだ(3節)。そのいのちの祝福を追求せよ、上にあるものを求めよ、とパウロは言う。

キリストは、私たちの罪の赦しのために死んでくださった、とはよく聞かされることだ。しかしそればかりではない。キリストが十字架上で死んだ時に、私たちもまたキリストと共に古い自分に死んだのである。そして、キリストが神の力によって復活させられたその力によって、私たちもまた新しいいのちによみがえらされている。今ある私は私であっても、もはやかつての私ではない。新しいいのちに生かされ、新しい動機と価値基準、物の見方、行動意欲に満たされた自分なのだ。4節、パウロは「私たちの命であるキリスト」という言い方をする。キリスト者にとってはキリストが生き甲斐である。キリストに生きていくことが、私たちにとっての最大の喜びである。そこから、やはりキリストのみこころに沿って生きていくことが起こってくる。だから、肉の行いを「殺し」、「捨て」、「脱ぎ捨てる」ことと同時に、「身につける」、「着る」、「持つ」、「住まわせる」ことの訓練が生じてくる。クリスチャンの人生には消極面と積極面がある。死んだものを死んだままにし、与えられたいのちを大事に育てていくことである。そうすれば、人格に決定的な変化が起こる。人間を変えないキリスト教はありえない。神はこうした新しい人となる恵みをあらゆる人に差別なく与えてくださる。

パウロはグノーシスを意識したのであろう、新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(10節)と語る。グノーシス主義の影響を受けた偽教師たちは、知恵の本をアポクリュフォイ(隠されたもの)と呼んだ。つまり、救いの知恵は隠されていると考え、それを追求するように求めた。しかしパウロは、救いの知恵はもはや誰にも明らかであって、それはキリストであり、むしろ隠されているのはいのちであるという。追及すべきはいのちだ、新しいキリストのいのちに成長することが、救いの完成になるのだという。キリストのいのちに生かされながら、これまでの自分にはなかった新しい人生を積極的に生きることなのだ。

さて、個人の変革は、人間関係に現れる。一つは夫婦の相互関係について。パウロは、妻は夫に従え、という。しかし、夫には妻を愛せよと語る。夫は、妻よりも自分を愛する傾向にある。だから妻を愛することを意識化しないといけない。結婚は夫の便のためにあるのではない。夫と妻が二人の生活の中から互いに新しい喜びと新しい完成を見いだしていくためにある。

次に親子関係。子どもは親を尊重するようにと語られる。親が安易な生き方をする時に、子どもはそれをそのまま見て育つ。また一方で親は、子どもにがみがみするようでは、子どもは気落ちすることが多々である。親の務めは、子どもを訓練するばかりではなく「励ます」ことにある。訓練と励ましのバランスが大切である。

最後に奴隷と主人の関係。奴隷は良心的な労働者でなければならない。つまり神様が自分にこの主人を与えてくださったと考え、主人に仕えることで神に仕えることだ。そうなれば、すべてのことをキリストに仕えるように一生懸命するのである。賃金のために働くのではない。野心を遂げるために働くのではない。ただ、神に対しての責任を覚えて忠実さをもって働くのである。今日も、みことばに聞き、キリストに忠実な歩みをさせていただこう。