テサロニケ人への手紙第一4章

テサロニケ人への手紙第一には、流れがある。五つの章に分かれていて、それぞれが主の再臨に関連することばで終っている。つまり来るべきクライマックスでまとめられる形になっている。それは、パウロが、すべて未来との関連で物事を考えているからだ。

さて初めの三章は、回想である。1章は、パウロの福音がテサロニケにもたらされ、そこで確かに命ある群れが形作られ、良き評判が得られていることを感謝している。彼らは真に福音の「力」を味わい、人手によらず、神の守りの中で、模範となる教会へと建てあげられていた。そこで2章は、パウロとテサロニケの人々の関わりがどのようなものであり、そこに目に見えない力がどのように働いていたかを思い起こしながら喜び、再び、再臨の希望を告白している。3章は、テサロニケの人々との交わりを求めるパウロの強い思いと、その不足を補うテモテの働き、そしてパウロの期待に勝る成長ぶりへの感謝が述べられ、これも再臨の希望のことばで締めくくられている。4章からは、クリスチャン生活の実際的な勧めへと話題が転換していく。これはパウロの書き方の特徴でもある。最初の3章では、パウロは、彼らの救いの確かさを確認し、それに続く後半の2章は、いかにそのキリストの救いを生きるべきかを教えている。

「お願いし、また勧告します」、パウロの真剣さを示す二重表現である。神を喜ばす(4:1)、神を愛するところから行動を発するように、というが、その具体的なメッセージは三つある。

第一に、「ハギアスモス」聖さの中に歩むことである。性的不道徳から自分を守ることである。テサロニケの人々は、一夫多妻制、めかけ制度、同性愛、乱交が当然のこととして受け入れられている世界に住んでいた。そのような世俗的影響を四六時中受けているテサロニケの回心者の中には、聖書が語る純潔を新しい徳目として語る必要があった者もいた。また、歴史的に結婚の約束がこれほど尊重されず、離婚が容易であった時代はなかった。4節は、「各自、自分の妻を清く尊く保ち」とも訳しうる。姦淫しないということは、伴侶を真に愛することに他ならない。8節、「神を拒む」は、横に置くが直訳である。無視するとも訳される。神を横に置き、無視する。拒む人は、はるか遠くにおられる神に対して罪を犯すのではなくて、新生と聖化の御業をなされる神を横にどけて、無視しているのである。

第二にパウロは愛の内に歩むようにと勧める。聖さの内に歩むなら、必然的に関係も大事にされるだろう。しかし、聖さを求めるあまりに人を裁いて、人との交わりを絶っていく逆のことが起こることもある。だから聖さは、愛をもって熟成されなくてはならない。

第三に、パウロは、外の人に対して、忠実に証できる歩みをするように勧める(10、11節)。どんなに要領がよくても、堅実な積み重ねを嫌う人間に、本当に力のあることはできない。クリスチャンが何事を成し遂げることがあるとしたら、時間をかけて、一歩一歩堅実に身を入れて物事に取り組むからである。

最後に、パウロは、テサロニケ人たちに生じていた再臨についての誤解を修正しようとした。テサロニケの人々は、再臨が自分たちの生きている間に必ず来るものだと思っていた。そして再臨の前に死んでしまった人たちが、その恵みにあずかれないのではないか、と気にしていたのである。しかし、すでに死んでしまった人々は、イエスが一緒に連れてこられるであろうという(14節)。号令は復活をもたらし、声は集合を命じ、ラッパは審判の始まりを宣言するのである。いわゆる終末の思想は、教会にとっては重要な希望であり、輝かしい未来を宣言する。