ヘブル人への手紙4章

イエスは忠実な大祭司である。となれば、私たちが神の安息に入れないという責任は、大祭司の側の問題ではなく、私たち自身の問題になる。安息には自動的に入ることはできない、だから、入りそこなう可能性を恐れ、自分自身の救いを全うしなければならない、ということにもなる。「神の安息に入るための約束はまだ残っている」という。神に対して不信仰になり、不従順になったとしても、安息の約束が即取り去られるわけではない。イエスの十字架の故に、それは私たちに残されているのであるから、聞いたことばを信仰によって結びつけ、それを積極的に得るべきである、という。

かつてイエスは、子どもの病気のために失望して半ばあきらめかけていた父親に対して言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)大切なのは、積極的に、神には必ずできると確信を持って近づくことである。神は全能の神である。聖書は、はっきりと私たちが神を信じることによって神が私たちにご自身の力を現わされることを示している。「信じた私たちは安息に入るのです」とあるように、私たちは信仰によって、神の祝福を受ける。

ヘブルの著者は、ユダヤ人に向けて語っていることに注意したい。というのも、ヘブルの著者は、この安息は、ヨシュアの時代に約束された嗣業の地に入ることとは別物である(8節)、と強調しているからだ。ユダヤ人に、地上のものではない安息があることに目を向けさせている。それは現代の読者にも大いに関係する。つまり、神を信じるなら、今日この日から得られる霊的な安息であり、将来には完成されるものである。今この世にあって、完全に私たちの魂が安らぐことは不可能なことだろう。しかし、キリストの救いに与る者は、その安息を確かに経験し始める。この祝福こそ、私たちは味わい知らなければならない。

そこでヘブルの著者は根本的な問題について触れている(12節)。聖書は神の言葉であり、生きていて、力にあふれている。それは、人間のもっとも心の奥深い部分に入り込み、探り出すのである。人は、神のことばによって神に向かう者とさせられる。なぜなら、神のことばは、神の前にすべてを明らかにするからである。大切なのは、その結果、私たちには救いかさばきがもたらされる、ことだ。私たちが神のことばにどう応じるかが問われている。

そしてもちろん、神に積極的に信仰を持って応じることが期待されている。というのも、ヘブルの著者は、大祭司イエスの守りととりなしについて触れるからだ。つまり、神は、私たちの隠された心を明らかにすると同時に、私たちの心の恥を覆う配慮をしてくださる。それがまさにイエスの十字架の恵みであると言わなくてはならない。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(13節)という。

神はイエスを復活させ、もろもろの天を通りぬけて、神の右の座へと招かれた。しかしイエスは、その前にまず低きに身を置かれたのであり、私たちと同じ試みの中を歩まれた。しかも、イエスは同じ試みを味わいながら、その試みに屈することがなかった。そのイエスは、私たちの身内であり、私たちの友、兄弟である。さらにそのイエスが、大祭司となって、神の右の座にあり、神にとりなしをしてくださっている。そのイエスが、おられるからこそ私たちは、やがて神の御前に恐れなく立つことができ、神に与えられる安息を得られると確信しうるのである。

信仰は一生の歩みである。霊的に研ぎ澄まされていく歩みである。しかしそれは独り相撲ではない。信仰者同志の励まし合いだけによるのでもない。キリストのとりなしによって支えられ、助けられながら、神との交わりを深め、練られていく歩みである。神のみことばに心探られ、引き上げられていく歩みなのである。