ペテロの手紙第一2章

本章は、いかにキリストに倣いて、聖さを深めていくべきか、具体的な勧めとなる。

①憎しみ、善人ぶること、不正直、ねたみ、陰口をやめる(2:1)

②神のみことばの乳を慕い求める。捨て去るだけではない。人を聖める神のみことばを慕い求めることだ。神に近づき、神と共に時を過ごすようにすることが、さらなる聖めの秘訣である。

③新しい自己認識に生きる。ペテロはイエスに与えられた新しい自己認識に生きた。ペテロはイエスと出会い、イエスに新しい名を授けられ、その名に沿う人生を歩んだ。その記憶からペテロは、読者にも、主に近づき、主にある新しい自己認識をもって生きるよう勧める。たとえば、私たちは「生ける石」である。捨石ではない。有用な、なくてはならない石である。神は、私たちを未来のための大切な礎石として見てくださっている。また、私たちは、「選ばれた者」である。この世の社会では、人を功績や能力、品性で選んでいく。しかし神は、私たちの存在そのものを尊んでくださる。実際パウロが言うように、私たちは生まれる前に選ばれているのである。ある家柄に生まれて育ち、教育や技能を身に着け、良しと認められるような者であったから選ばれたわけではない。理屈抜きに、私たちの存在そのものを認め、大事に思っていてくださるのである。さらに、私たちは「祭司」である。すべての人は牧師ではないが、祭司として召されている。つまり、祈り、いけにえをささげ、とりなすことが祭司の三大職務であるが、同じ働きを担うように期待されている。自己が満たされることだけを求める自己中心な信仰生活は、結局古い罪人の姿そのものであって、そこから一歩抜き出て、教会に所属し、祈り、奉仕し、証しすることがなければ、本当に満たされた人生のなんであるかを知ることはできない。毎週教会に出かけることが教会生活なのではない。教会を愛し、そこで神に与えられた役割を果たしていけるようになることが大事なのである。第四に、私たちは「聖なる国民」である。ペテロは、イエスの聖さについて、変貌山にて、体験的に教えられている(マルコ9:2-8)。ペテロは神の聖さが何であるかを超自然的に体験し、理解させられた人である。それは、私たちの内側にはない全く新しい聖さを得ることだ。私たちが今持っている品性を磨くこととは違うものである。第五に「神の所有とされた民」私たちは神との深い結びつきに生きる者である(ローマ8:38-39)。第六に「哀れみを受けた者」確かにイエスの哀れみを一番感じたのはペテロかもしれない。裏切者となることがわかっていても、イエスはペテロの信仰が守られるように祈った。神は私たちの信仰が守られるように、たゆみなく哀れみを注いでくださるお方である。これら、神の与えてくださった新しい自己イメージに生きることが、私たちの人生を変えていくことになる。

11節から、手紙の後半に入り、信者が現実の生活の現場でどのようにして聖さと神への信頼を実践するかが語られていく。基本は、寄留者として生きることである(11,12節)。ペテロは、私たちが、故郷ではない世界にいる一時的な寄留者であることに注意を向けている。旅人であれば当然肉欲を遠ざけるべきである、と。またもっと積極的に、立派に振る舞うようにと続ける。聖さは、まずこの世の人たちへの証とされなくてはならない(12節)。そこで、13節以降、迫害下にある兄弟姉妹に向けて、まず、善良な市民であり(13-17節)、労働者であることが勧められる(18-25節)。大切なのは、罪を犯すように命じられた時以外はすべての制度に服従せよ、と命じられていることだ(13,14節)。善良で優しい主人だけではなく、意地悪な主人にも従え、という。大切なのは、単に不当な苦しみとそれに伴う悲しみを耐えるのではなく、神が最終的にすべての悪を矯正し、よきに導いてくださるという信仰に立つことが神に期待されていることである。キリスト者の従順は目的のない、出口のない忍従ではない。そこによき結果を期待し、神の業がなされることを期待しての従順である。罪の赦しの犠牲という目的のためにご自身を十字架にささげたイエスの足跡にこそ従わなくてはならない(21節)。