ヨハネの黙示録16章

 災いの第三サイクルが描かれている。これは先の二つのサイクル、解かれた封印、吹き鳴らされたラッパのそれと同じことを言っているが、内容はより激しくなっている。たとえば、先の災いは、地の3分の1に対する限定的なものであったが(8:10)、最後の七つの鉢の災害はすべての者に及ぶ。それは、一時的な懲らしめではなく、これまでにない最終的なもので、悔い改めの呼びかけが何度も要求されるのである(9節、11節、21節)。
 しかもこの鉢はどこから来たものか?5:8香に満ちた、金の鉢、香は「聖徒たちの祈り」とされる。その鉢が、神の怒りの鉢としてぶちまけられたと取るべきだろう。私たちの祈りは決して無駄にはならない。こうしてすべて積まれた祈りは、最終的には、精算される、というべきであろうか。しかも興味深いことは、ローマ12:20で、パウロは「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」と言っているが、復讐するは我にありとあるように、こうして長らく果たされないと思われていた、全ての復讐も成し遂げられるのである。「燃える炭火が彼らの上に降りかかりますように。彼らが火の中に深い淵に落とされ立ち上がれないようにしてください。」という祈りは(詩篇140:10)応えられるのである。
さて人が死ぬことについては、誰も異論がない。誰も死を経験したものはいないにもかかわらず、他人の死を見て、生ある者は必ず死ぬと理解する。しかし、裁きについては意見が別れる。信じない人は多い。しかし裁きがないなら、この世における裁きは、あまりにも不幸である。詩篇や箴言では、悪者が栄える事に対して、やりきれない思いが非常に率直に表現されている。有名なイマヌエル・カントという哲学者は、もし神と来生の希望がなければ、道徳的な理念は、どんなに立派なことを言っても、人々はそれに同意と賛嘆は示すけれども、だから自分もそう生きようという意図と実行の動機にはなり得ない、という言い方をした。裁きがなければ、道徳そのものの基盤は実際にはないというわけである。神の正しい裁きがあるという聖書の教えに立って初めて、今の私たちの生き方のもとになる道徳的な規範が成立する。7節、神の裁きは勝手な独断的な思惑によるものではなく、正義の現れである、と強調される。
さて、16節。「彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。」この場所がどこをさすか、何を意味するか、色々な説があるだけで確定しがたい。ハルマゲドン、一般的にはメギドの山と、理解する人が多い。ハルは、ヘブル語で山、マゲドンは、ヘブル語のメギドの音訳。そこからハルマゲドンはメギドの山を指すとされるからだ。ところが、メギドの山は実在しない。だからこれを少し読み替えて、イルマゲドンとする解釈がある。イルになると、メギドの町になる。メギドの町はあるからだ。パレスチナの内陸からフェニキヤに至る道と、エジプトからシリヤメソポタミヤに至る道が交差する通商や軍事の重要な拠点でもある。旧約聖書の時代には大きな戦いが繰り返された。ここで起こる世界の最終戦争を預言している考えられた時代があった。しかしここに、戦闘場面は描かれていない。そこでハルマゲドンは象徴的に理解するのがよいのだろう。つまり、それは大きな戦争を象徴しているが、具体的に核戦争を始めるといった、目に見える最終戦争ではなく、目に見えない世界で繰り広げられる最終戦争であるという理解である。この地上の戦争ではなくて、霊的な世界での戦い。つまり、悪魔ともサタンとも呼ばれる悪の勢力が、生き残りをかけて、最終的な抵抗をする戦いと読むわけである(20:7-10)。確かに、悲しみも苦しみもない、素晴らしい祝福の天が来る前に、悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は、終末において、宇宙とともに、跡形もなく滅ぼされてしまう。20節は、ラストシーンを描いている。だから悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は生き残りをかけて、神に抵抗し戦いを挑む、それがハルマゲドンだ、というわけである。
聖書の世界観は、二元的である。普通の人は、一元的に世界を見ている。目に見える世界がすべてだと考えている。しかし、聖書は、目に見える世界だけではなく、もう一つの目に見えない神がおられて、悪魔やサタンという存在がいて、死んだ人々も眠った霊として存在する二元的な世界観で語られている。今の目に見える世界は、やがて滅びるものであるが、神がおられる世界は、永遠に残る。しかも、その世界からサタンとも、悪魔とも呼ばれる存在は永遠に追放されて、ただ、イエスの十字架によって、罪赦され、十字架の愛に生きることを学んだ者のみが招かれ、永遠の安息の時を享受する時が来ると言っている。ただ世は終わるのではない、滅びるのではない、滅びを超えてその日、すべての人間に神の正義がもたらされる日が来る、安息の恵みの日がもたらされる時が来る。神にお会いする備えが求められている。

ヨハネの黙示録15章

これまで、七つの封印(6-7章)、七つのラッパ(8-15章)、と二つの災いのサイクルが描かれてきた。ここで、7人の御使いが、最後の災害を携えて登場する。しかし2節、ここでは、13章で激しく迫害を受けた信仰者が、解放され、勝利の歌を歌っている姿が描かれている。「彼らは、神のしもべモーセの歌と子羊の歌とを歌っている。モーセの歌は、かつてイスラエルの民が紅海を渡ってエジプトを脱出した時に(出エジプト15章)歌った歌である。
出エジプト記14章30節には「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」とある。エジプトから脱出したイスラエル人たちは、紅海の対岸に辿り着いていた。そして15章1節、モーセとイスラエル人は主に向かって、この歌を歌ったとある。一方、黙示録15章2節、勝利したクリスチャンたちが「ガラスの海のほとりに立っていた」とある。このガラスの海は、4:6にあるように、神様の御座の前、天の都にある。そこに、クリスチャンたちが立っている。そして彼らは、モーセの歌と子羊の歌を歌っている。明らかに、黙示録の光景は出エジプト記のものを背景として描かれており、歌われている歌も替え歌になっている。
出エジプトのモーセの歌では、神様が苦しみから解放してくださった、神様は悪い者を裁いてくださった、ことが具体的に歌われている。そして何度か繰り返して読むと分かるが、褒め称えられている神は、あくまでもユダヤ人の神は素晴らしいという調子である。しかし、黙示録の替え歌は、もっと積極的である。苦しみから解放してくださった神様は素晴らしい、偉大であると言う。けれどもその言い方は、比較ではなく絶対的である。ただあなただけが聖なる方です(4節)。聖なる方、これはヘブル語ではカドーシュ。区別されたという意味が原意。つまり、「あなただけが区別され、抜きんでた唯一の神です」という意味になる。そして「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します」とある。
また、黙示録の歌は、子羊の歌であるとされる。それは、旧約の出エジプトと黙示録の新しい出エジプトの性格の違いから来る。旧約ではイスラエル人たちは、エジプトで奴隷状態にあり、彼らは虐げられ苦しんでいた。そして神様がその呻き、叫びを聞いてくださって、解放してくださった。それで、彼らは神様の正しい裁きをたたえ、感謝する歌を歌う。一方、黙示録では、クリスチャンたちは、同じようにローマ帝国の迫害の中で虐げられ苦しんでいるが、その苦しみと積極的に戦っている。キリスト者として生きることが難しい社会状況の中にありながら、キリスト者として生きることに血を流している。最後までキリスト者として生き抜ぬいて、勝利を勝ち取っているのである。彼らは、ただ苦しみから解放されただけではない、勝利したのである。だからこそ子羊の歌を歌っている。実際イエスも、十字架の苦しみに勝利し、神の右の座にお着きになったのだ。
神は私たちに勝利を約束してくださっている。そこで、自身を神に対する最高のささげ物として日々ささげて生きていきなさい、というメッセージも出てくる。11章には証人のイメージが示された。クリスチャンとして生き抜くことを証しする者のイメージである。12章では、一人の女と赤い竜のイメージで、証人が迫害され蹂躙される様が語られている。13章も同様、ローマ帝国で強制された皇帝礼拝に伴う迫害が「海の獣」「地の獣」のイメージに重ねて語られる。14章は、その迫害下で信仰を守り抜き、戦い抜いたクリスチャンたちが天に凱旋しているイメージが描かれている。15章は完全なる勝利の歌を、神の御前で歌い上げている。
 一連のドラマをとおして苦しめられる者への慰めのメッセージが、語られている。簡単に言えば、苦しめられる者には、新しい出エジプトがあり、十字架の勝利がある。だから、勇気を持とうというわけである。神への信頼と希望を持つ一日としたい。