創世記20章

 アブラハムの同じような失敗が、もう一度記録されている。この種の過ちを繰り返すこと自体がおかしいというので、この個所を12:10の重複であると理解する者もいる。しかし、この種の過ちを繰り返す、当時の状況もあったと考えることも可能である。つまりアビメレクが、アブラハムを呼び寄せて詰問した際に、アブラハムは自分の動機について釈明し、サラが妹であることを強調している。当時のヌジ文書の研究によると、フルリ人社会に特有な制度として妻妹制というものがあったという。これは一般に上流社会で行われた制度で、妻であると同時に、妹であるという二重の立場を与え、普通の妻の場合よりも、有利な特権と保護を認めたという。アブラハムにとって、当時の旅がいかに危険であったかを思えばこそ、敢えてこの制度に訴えて、ウルの地を旅だった時からの取り決めとしていたことは考えられる。そこでアビメレクも、これが当然起こるべき誤解であったことをよく理解したことになる。つまりこの出来事は繰り返えされておかしくないものであった、ということである。
しかしたとえそうであったとしても、アブラハムに人を恐れる気持ちがあって、偽ってしまったことは否めない。そしてその弱さと罪のゆえに、人を罪に巻き込んでしまったと言うべきだろう。アブラハムは一部族長であったが、遥かに力を持った一国の王に目をつけられ、妻を召し抱えられ、その危機的な状況にあって、全能の神を信じるアブラハムではあったが、内なる確信とは別に、彼は現実の力関係を覚えると、自分の命を守るために嘘をつかざるをえなかった、ということだ。
それは私たちの経験からもよく理解できるところだ。職場内の色々な軋轢や、家庭内のごたごたの故に、何かを失う恐怖、自分の存在を揺るがされる恐怖に駆られ、神の支配にある確信よりも現実の厳しさに行動を突き動かされることが多いのである。神にすべてをゆだねきって、楽観的に生きるなど、立派な言い方ではあるが、そうそうできることではない。信仰の偉人アブラハムと言われた人ですらそうなのだ。完全な信仰者はありえない。失敗は繰り返される。むしろ、生涯にわたってその人がどのような態度を貫いたかが本当の評価となる。失敗したらそれで終わりではない。むしろ失敗によって何を学ぶか、どのように成長するかが問題である。聖書は失敗者が後に信仰の人と語られることを許していることを覚えたい。
信仰は、目に見えぬものを望みながら歩んでいくものである。だから逆に、目に見えるものに目を留めていくだけの人生なら、信仰は決して起こらないし、心の平安も得難いものだろう。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴言30:25)とあるとおりだ。その確信に立つことに成長していくことが大切なのだ。
さてこの物語は単なる第二の失敗物語ではない。もう一度先の12章の出来事と比べてみると興味深いことに気づかされる。というのも、12章では、事件が記録されているだけであるが、二度目のこの事件では、アビメレクの弁明が許され、さらにアブラハムのとりなしの祈りが記録されている。
アビメレクが、正しい心でアブラハムの妻サラに触れる目的でサラを召し入れたことが記されている。しかし、神の配慮によって、アビメレクはサラに触れることができないでいるうちに、神の幻を見、神からの語りかけを受けている。そしてアビメレクは、サラが妹ではなく妻であることを知り、神に自分の正しい心を訴え、神もその正しさを認め、アビメレクが神の不要な裁きに遭わなくてもよいという状況が作りだされている。
 神は、人の正しい心を見ておられ、そこに信者、未信者の区別はない。信者は聖徒であり、未信者は罪人という見方ではない。神の目は、信じている者にも信じていない者にも公平に注がれている。神は言う「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ」(6節)。神はアブラハムを選ばれたが、アブラハムにひいきするわけではない。むしろ、神の民として選ばれなかったアビメレクをも同等に扱っている。神は、信者にも未信者にも正しいことをなさるのである。神の選びの特殊性は、新約につながる十字架の救いの計画に関わることが中心である。
 さらにこのエピソードを聖書全体の流れという観点から読めば、アブラハムによって全ての民が祝されることの、具体的な例として読むことができるものだ。しかも、アブラハムは、全くもって不完全な人間で、弱さゆえに、罪を犯し、他人をも罪に巻き込むような存在であったが、それでも神は、その信仰成長の途上で、アブラハムに罪人の回復のために祈ることを求めておられるのである。
 しばしばキリスト者の中には、他人のためのとりなしや、神の御言葉の伝達、いわゆる宣教は、それなりの人がすべきこと、牧師・伝道師と呼ばれる、信仰的にも立派な域に達したと思われる人がすべきと考えていることがある。しかしそうではない。まさに、罪人の弱さの中にありながら、信仰成長の途上にありながらも、神は、キリスト者を用いられることを、この物語においてわからなければならない。最初の物語との違いは、まさにとりなしの祈りがあることで、アブラハムが選びの民に相応しい、とりなしという霊的な行動が促されていることである。
 神の選びの特殊性は、まさにそこにある。私たちが、主にあって選ばれたとしたら、それは、私たちに何かよいところがある、何か立派な光るものがある、という私たちの側の理由によらず、まさに、とりなし手としてあることを期待する神の理由により選ばれているのである。地の全ての民は、あなたを通して祝される、というのは、まさにそういうことで、私たちには、とりなし手としての自覚が必要なのだ。