申命記5章

申命記5章 授けられた十のことばの振り返り
<要約>
皆さんおはようございます。新しい世代に十のことば(十戒)が繰り返されます。それは、守るべき規則というよりも、愛されるべき神の価値観でありことばです。神に、大きな恵みをいただいた、という事実に立つ者であれば、それがわかることでしょう。神の恵みを覚え、神の十のことばに従う、そのような歩みを今日も導いていただくこととしましょう。今日も主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

3)授けられた十のことばの振り返り
(1)契約(5:1-3)
 旧約聖書信仰の中心は、シナイ契約と十のことば(十戒)にある。なぜ、聖書を読むのか、それは私たちを滅びの中から救い出してくださった、神との契約の故である。その契約は、かつての古い世代と交わされたものでありながら、新しい世代においても、またこれから後の世代においても有効である。実際このモーセのことばに耳を傾けたのは、シナイ契約を受け取った世代ではない、その次の世代、いわば新しい世代の人々であった。なのにモーセは強調する。「主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれた」(5:3)と。神は十把一絡げにイスラエルの民と契約を交わしたのではなく、イスラエルの民「一人一人」個別に向かい合って、各人の心に向けて語られ、契約を結ばれた。そしてその契約は、幾世代にもわたって、神との個人的な関係で繰り返し受け継がれていくのである。
その契約関係にあって、私たちの新しい生活の規範として、十のことばが与えられている。「聞け、イスラエルよ。今日、私があなたがたの耳に語る掟と定めを。これを学び、守り行いなさい」(申命5:1)その目的ははっきりとしている、救い出された私たちが神の民となるためである。大事なことは、神は、ただ自らのおきてと戒めを押し付けられる方ではないことだ。むしろ、交わされた契約については、自らもその契約を守られる。そこで、私たちが神の命令に従うなら、「あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」(33節)とあるように、神も私たちを幸せにする義務を守られる。ここが押さえられていないと、やはり、神を漠然と信じるだけの人生になってしまう。しかし、漠然と神に期待し、神を信じている者らしく振る舞うだけの人生であってはならない。確かに神が、私たち一人一人と向かい合っておられ、私たちを祝福し、幸せにしてくださる、という深い確信のもとに、その祝福に与りながら、あるいは理解しながら生きていくことだろう。私たち一人一人と関わろうとされておられる神に、自らの心を向けていく、そして自分に対するおきてと定めを聞いていくことが大切なのだ。
(2)十のことば(5:4-21)
6節からは、基本的に出エジプト20:1-17の十のことばの再録である。まず前文が大切で、出エジプトの恵みに基づいて、神の戒めが語られる。先行する恵みがあるために、私たちは戒めに従っていく。神に何かいただけるから、神に幸せにしていただけるから従う、というのではなく、既に大きな恵みをいただいる、という過去の事実に基づいて従っていくのである。パウロも、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ5:1)と語っている。救いの事実に基づいて、神の戒めを受け入れて生きるのだ。
しかしそうではあっても、やはり私たちの心の中には、神に従いたくない心があったりするものだ。かつてのように全面的に罪を楽しむよりも、ひそかな罪の楽しみの余韻を捨てきれないでいたりする。そのようなものを断ち切ることには勇気を要するものだろう。しかし、神が私たちにどんな深い恵みを現してくださったか、とまず覚えたいところではないか。神がまず私たちに大きな恵みを注いでくださった、だから十のことばがある、と。
そして十のことばは、神の民が大きな二つの義務を持つことを伝えている。神に対する義務と、人に対する義務である。縦の関係と横の関係双方において健康的に従順であることが、求められている。そして神に対する義務ということからすれば、神の主権を認めること、神の権威に従うことであるし、人に対する義務ということにおいては、人のいのち、財産、評判、関係を守ることが教えられている。これら十のことばは、守られるべき規則というよりも、愛し、魂に浸透させるべき、神の価値観であり言葉である。
(3)十のことばへのイスラエルの反応(22-27)
 かつてシナイの山で、神の御声を直接聞いたイスラエルの民は、さらなる神のおきてと定めを、モーセが代わって聞くことを願った。また、神はそれを認め、神がモーセによって伝えられる神の言葉に聞き従うことを願った。それは、「彼らもその子孫も永久に幸せになる」(29節)ため、「所有するその地で、あなたの日々が長く続くようになるため」(33節)である。神は、私たちに新しい生活の指針を示しておられる。古い生活から救い出されて、新しい人生を歩もうとするのなら、まず地道ではあっても、主のみ教えによく耳を傾けることであろう。そして分かったつもりにならず、謙虚に、幸せの人生の秘訣を、教え続けられることである。私たちを救い出してくださった主が、導かれる人生を進んで行きたいものである。

申命記4章

申命記4章 神を認め神に従うことの勧め
<要約>
皆さんおはようございます。申命記は新しい律法ではなく、これから約束の地に入ろうとしている、荒野で育った新しい世代に対する、古い律法の再述です。彼らもまた、古い世代が受け止めた律法の精神を理解しなくてはならなかったのです。しかし何よりも大事なこととして教えられているのは、律法を覚えると同時に、律法を行う力のない罪人の無力さを覚えて、謙虚に神のあわれみによりすがる心を持つことです。今日も主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

3.教え
1)み教えの目的とその価値(1-8節)
1-3:29まで、出エジプト後の40年の歴史を回顧した後、モーセは、ヨシュアと民を新しい地に送り出すために、その歴史を踏まえて、まず「おきてと定め」に対して従順であるように、と勧めている(1-40節)。「聞き、それらを行いなさい」(1節)「守り行いなさい」(5節)とあるように。「おきてと定め」に聞き従うなら、約束の国で長く幸せに生きることができる、また、自らの知恵と悟りを示すことになる、と言う。モーセは、荒野で成長した新しい世代に対して、カナンに入る前に律法を反復し説明する必要を感じ、再びこれを語ろうとする。申命記は、新しい律法を教えているのではない。それは既に与えられているものの復唱である。
そこで3節、戒めのためにバアル・ペオルがあげられる。イスラエルの新しい民の新しい出発を挫いた事件で、それは、イスラエルの民が、敵の呪いによらず、自ら正しい道を外れ堕落したこと、呪われるべきことを行ったことに注意を向けるものである。イスラエルはモアブに誘惑され、神から心を引き離される偶像崇拝の罪を犯した。そのエピソードの本質的な教訓は、どんなに高く素晴らしい教えがあっても、それを唱えているだけではだめで、私たちの堕落した性質が、その教えを行う力のないことを覚える謙虚さをもって、主の十字架にある罪の赦しと聖めにすがり続け、主の高さに導いてもらうことを願いつつ、行いが実ることを心がけることにある。主がそのみ業をなしてくださる、と主にすがりつづける信頼の歩みを大事にすることである。
そうすれば、私たちは、神の祝福と、神に信頼する素晴らしさを証しすることになる(6節)。私たちは神を愛し、信じ、従う民として、神の祝福を世の人々に示すばかりではない。私たちがいかに神にあって知恵ある者であるか、を示すことにもなる(8節)。
2)偶像礼拝の禁止(9-24節)
 そこで、「おきてと定め」の第一として、バアル・ペオルの教訓である自分自身に十分に気を付け、偶像礼拝に陥ることのないようにと教えられる(11,15節)。イスラエルの民は、神の山ホレブで、語りかける神の「声を聞いたが、御姿は見なかった(12節)」、主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に「何の姿も見なかった」(15節)。その体験を一生忘れてはならない、とされる。神は存在しつつも無形のお方である。だから、どんな形の彫像も作ってはいけない、とされる。地上にあるどんな形に似せてもいけない、と。エジプトには、雄羊やわになどの形をした神々、空を飛ぶたかの頭をもった神々、また太陽神ラーや月神、その他ありとあらゆる形を持った神がいた。それは、日本も同じである。日本にも様々な形に彫られ、刻まれたものが神々として拝まれている。それらは、形こそあっても、実態があるわけではない。見ることも、聞く事も、食べることも、かぐこともできないただのモノである。命を持っているわけではない。しかし、まことの神は、霊であり、目に見ることはできないが、確かに臨在されるお方なのであり、そのお方を覚えて恐れなくてはならない。そして霊とまことをもって礼拝しなくてはならない。
実際、神は、私たちを「鉄の炉」エジプトから導き出したお方である。神は、私たちを滅びの中より救いだされたお方である。だからこそ、その神を認め、その神に従う関係が生じるのである。神のあわれみを経験する、それが信仰の出発点である。
3)契約を破った時、あわれみ深い神を覚える(25-31節)
 だが、私たちの信仰生活はしばしば順風漫歩ではない。罪人の私たちにとって、主の目に悪を行い、御怒りを引き起こすことが多々あることは免れ得ない。神はそのような私を裁かれるだろう。だが、そこから「主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求める時、あなたは主にお会いする」(29節)と神は約束される。神は目に見えないお方ではあるが、無機質な存在ではなく、愛情豊かなお方である。自ら、ご自身を「ねたむ神」であるとも言う。ねたみは、人間の心の奥に生じる最も人間的な感情である。神は、私たちに対する熱い思いをもっておられる。深く私たちを愛しておられる。つまり、神は私たちを愛と憐れみを持って、救い出されるだけではなく「あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない」(31節)情の深さを持ったお方である。神は単に霊的な超絶したお方ではなく、人格を持った存在であることを、私たちは忘れてはならない。
4)神への忠誠の勧め(32-40)
その神のことばに、私たちは日々、向かい合って生きていくことが大切なのだ。ただ、聖書を学ぶのではない。教えられるのではない。人格的存在なのだから、まさに神と良き時を過ごすのである。「心をつくし、精神を尽くして」(29節)というのは、「全身全霊をもって」という意味ではない「全心、全霊をもって」である。天にも地にも、他におられない、唯一の生ける神に向かい合って、このお方以外に神はいない、主だけが神である、と真摯に神のことばを受けとめながら生きていくところに、私たちの歩みがある。神が人間に求めておられることは、品行方正に生きることでも、極めてストイックに生きることでもない。ただ、主の偉大さとその御業を覚え、主の契約を握りしめ、主に寄りすがり続けること、神を認め、神の約束に信頼しつつそれに相応しい歩みを願うことにある。
5)ヨルダン東側の逃れの町(41-43)
民数記35:9-15、ヨシュア20:1-9と並行した記事である。哀れみ深い神の意志が、「逃れの町」の制定に現れている。故意にではなく、誤って失敗をした者の基本的人格が守られるために、逃れの町が定められる。本当のあわれみは人間の意思と人命とを大切にすることを良く示している、と言えるだろう。

申命記3章

申命記 3章 ヨルダン川東側の占領と西側占領の準備
<要約>
皆さんおはようございます。ヨルダン川東側の占領と西側の占領の準備が記録されているところです。ルベン、ガド、マナセの半部族は申し出の通り、東側を約束の地として受け継ぐことになりました。しかし彼らの戦いはこれからでした。主にある兄弟姉妹の戦いが残っているのに、やれやれと腰を落ち着けてしまうのではなく、いよいよ、手を取り合って祈り、支え合っていく、そこにキリスト者の愛の深さが現れるのです。今日も主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

3)回想:バシャン・ギルアデの占領、土地の分配、更なる挑戦
イスラエルがバシャンを征服した様子が描かれる。高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々をイスラエルは攻め取った。
(4)バシャンの王オグの国を占領(3:1-11)
攻め取った町の数60。38年前に、偵察隊の報告によって「背の高いアナク人」や「城壁が高く天にそびえている町々」に恐れおののき、不信仰に閉じ込められたイスラエル人が、今や、臆することなく戦い、主の助けによって勝利を重ねている。バシャンの王オグは、レファイムの生存者であり、その鉄製の寝台が約4メートルに及ぶことを特記するのも、彼らがどのような脅威を乗り越えたのかを示しているのだろう。
(5)ヨルダンの東側の地の分配(3:12-17)
12-22節は、占領したヨルダン東地区、シオンとオグの王国について、その領域とその地を受け継いだのがルベン族とガド族であることが記録される。大切なことは、これが彼らの信仰経験の基本になったことだ。著者は神の言葉を伝えて言う。「見よ、わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めている。占領し始めよ。その地を所有せよ」(2:31)と言う。そこで彼らは主のことばを信頼し「バシャンへの道を上って行った」(1節)。だが、それによって直ちに道が開かれたわけではない。敵は「迎えて戦うために出てきた」のである。しかし主は、約束通りに敵を「私たちの手に渡された」(3節)のだ。
この経験は彼らの信仰を形作るものとなった。「主は、あなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも同じようにされる」(21節)と語られる。これから先も主は、同じようにして私たちのために戦われるし、私たちに勝利を与えられる、と言う。この戦いの始めにモーセが恐れていたことは確かである(2節)。誰であれそれは恐れることなのだが、神にあって恐れることはないことを私たちは学ばなくてはならない。
(6)ヨルダン西側征服の準備(3:18-29)
 こうして神はヨルダン川の東側の地を、ルベン、ガドの二部族とマナセの半部族に与えられたが、全イスラエルにとっては、戦いはまだこれからであった。だから、これらの二部族半の勇士たちは、みな武装して、むしろ他の「同族」(あなた方の兄弟たち)、つまりイスラエルの子らの先頭に立って、ヨルダン川を渡っていくように、と勧められる。その背景は、民数32:1-31を確認しておこう。
さて、3章の残りの部分は、モーセの祈りが記録される。モーセの神に対する懇願は受け入れられず、ヨシュアが新しい指導者として任命された。申命記では、モーセが約束の地に入れないことよりも、その地を受け継がせるように後継者ヨシュアを立て、主が約束を果たされようとしたことが強調される。モーセは、主の力強い御手のわざが自分を通して示されたことを訴え、自分も約束の地に入ることができるようにと願っている。しかし神はそれを許されなかった。それは、メリバにおいてモーセとアロンが主の言葉に背いて神の聖さを現さなかった、たった一度の衝動的な怒りのためで、反逆の民を40年間導き続けた指導者モーセの労苦を思えば、あまりにも厳しすぎるようでもある。人情からすれば、エジプトからの大脱出を成し遂げたご褒美に、モーセの最後の望みをかなえてもよさそうなものを、というところだろう。しかしモーセは、神のご計画に自分を従わせている。神の御意志がすべてであることを理解している。もちろん、神はあわれみ深く、恵み深い神であるし、忠実な者によくしてくださるのだが、モーセが約束の地に入ることは神のみこころではなかった。その理由はわからない。私たちが、執拗に何かを願い、自己愛に傾く時にこそ、むしろ一歩、その思いから退いて、神に全てを委ねる気持ちを持つことが必要である。神は私たちに常に最善をなしてくださるのだから、私たちは神が私たちに諭し、示されることでよしとする従順さを持ちたいものである。祈りの中で、神の意志を問うことがあっても、神の意志に従う気持ちをもっていく。
そして神が自分に与え続けておられる任務を見出し専心することが大切である。神は人情のないような方ではない。もはや用なしといって、古びた者を退けることはないからだ。命ある限り新たな任務を与えられる。彼の任務は、ヨシュアを力づけ、励ますことにあった。やれやれと腰を落ち着けてしまうことなく、他の者も同じ恵みにあずかるまで、キリスト者の責任を果たすべく、地上にある旅人としての歩みを許される限り、任務に徹することである。

申命記2章

申命記2章:北に向かうイスラエル
<要約>
皆さんおはようございます。「神は北の方に向きをかえよ」と命じられます。神は、私たちにチャンスを与えられる方です。そしてそれができる、と保証されるのです。自身が無能、無力であると思えばこそ、この神のことばにただ期待し、信頼する他ありません。信仰は信じ込むことでも、力んで信じ自分を奮い立たせることでもありません。ただ、素直に主のことばに期待することです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
2)回想:シホンの占領
ヨルダン川東側を通る旅の記録である。神が命令し、イスラエルが従順に従った様子が記されている。そしてその命令は一様ではなかった。ある地域は占領し、他の地域は慎重に通り過ぎるように命じられた。神の御心が優先されたのである。
(1)北の方へ向きをかえよ(2:1-3)
「葦の海への道を荒野に向かって」、というのは、シナイ半島をスエズ湾に沿って南下する道を指す。カデシュ・バルネアで不信の罪を犯して、結局イスラエルは、約束の地とは逆方向に進み、その後、「長らく」おそらく約38年もの間セイル山の周りを回っていたと考えられる(3節)。実際には、セイル山に住むエサウの子孫たちとの衝突を避けて、その山地の南西側を行きつ戻りつしていたのだろう。このように長らく放浪と混迷を続けていたイスラエルの民のために、神は「北のほうに向かって行け」と命じられた。
何とも象徴的な出来事である。私たちの人生にも、長らくセイル山の周りを回るだけ、つまり堂々巡りの毎日で、時には逆戻りしているように思わされる時があるものだ。しかし、そんな私たちに神は、語りかけ、脱出へのチャンスを与えてくださる。問題は、信仰をもって神の声をしっかり受け止める、つまり信仰の一歩を踏み出せるかにある。
堂々巡り、あるいは空回りの日々を感じる時は、思い切って方向を変えてみることだろう。たとえば、たとい5分でも10分でも朝の祈りの時を確保するとか、聖書を規則正しく読み始めるとか、教会の祈祷会に努力して出席し始めるとか、もちろん、それは容易ではないと思われることがあるものだ。実際新しい努力をせずに、古い慣れた生活の中で、少々苦しくてもだらだら悩んでいる方が楽かもしれない。しかし、そこに何の新しい展開も期待できない。新しい試み、今までなかったようなことを努力してみることだ。導き、共にい居てくださるのは「生けるまことの神」であると信じているのであれば、なおさら踏み出したいものである。
実際神は、イスラエルを不従順の故に、ただ荒野に放り出し、見捨てていたわけではない。神は、荒野の旅で共におられて見護り、何一つ欠けることのないようにしてくださっていた(7節)。よく味わうべき真理だ。神は最も暗い時にも光として私たちと共にいてくださる。そのような方が「北の方に向きを変えよ」と命じるのである。セイルの山の周りをぐるぐる回るだけの人生に、ピリオドを打とう。
(2)エドム、モアブ、アンモン通過(2:4-23)
4節以降、神は、エサウの子孫(エドム)(4-8節)とロトの子孫(モアブとアモン)(9-21節)に対する配慮を示されている。この全世界に唯一まことの神であればこその配慮である。神は万人の神であり、イスラエルだけの神ではない。神は万人に、その時代においてその住まうところを定めておられ、それぞれに配慮を示しておられる公正な神なのだ。
セイル山岳地帯はエサウの子孫に与えられていた(5節)。だから神は、エドム人との争いを避け、水や食料もお金で買って得るようにと命じられる。この主の命令に従って、モーセはエドム人と折衝を繰り返したが、彼らは領土内の通過を断固として許さず(民20章)、結局、イスラエルはモアブへの道を進んで行った(8節)。
続いてモアブ人やアンモン人もまた所有地を与えられているのだから、争ってはならないと命じられる。
(3)ヘシュボンの占領(2:24-37)
こうして神が与えられない地の境界が明らかにされた後に、神は、モアブ人とエモリ人の間の国境となっていた「アルノン川を渡れ」と命じ、ヘシュボンの王シホンとその国を「あなたの手に渡す」、だからこれらを勝ち取るようにと仰せられる。この戦いは、「天下のあらゆる民に」(25)、特にこれから渡って行こうとしている国々の民に恐れを生じさせるための戦いであり、主が共に戦われることをイスラエルに体験させるための戦いであると言う。
この箇所を根拠に神の義戦が肯定されるような神学的議論がある。しかし、特定の時代の、特定の状況において、一部の記録に過ぎない記述からそのような議論もできないことは弁えておきたい。
 ここで注目すべきは、「立ち上がれ」「出発せよ」「渡れ」「見よ」「占領し始めよ」「戦いを交えよ」と繰り返される命令である。ここに、私たちへの励ましがある。物事には思い通りにならないことが多い。だから戦いの困難さに、萎えてしまい、ビジョンも衰えることがあるだろう。そのような中で、やはり腹をくくって、ここは戦い勝ち取るという意志が保たれるのも、神によって勝利が保証されていることを思えばこそである。「私たちの力が及ばない町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな私たちの手に渡されたのである。(36節)」とあるように、神が私たちに勝利を与えてくださる、と信頼を寄せることだ。力んで信じるのではない。自分に思い込ませて、自分を奮い立たせるのでもない。自らが、無力無能であると思えばこそ、ただ神のことばが成ることを期待し、信頼するのである。

申命記1章

申命記1章 モーセの最初の説教(1)
<要約>
皆さんおはようございます。本日より申命記に入ります。カナン征服の戦いを目前としたイスラエルの新しい世代を霊的に整えていくための、モーセの説教集というべきものです。彼らに求められたことは、神の存在を認め、神の素晴らしい業と神の愛の御性質を認めて未知の世界に踏み出す勇気を持つことでした。信仰の一歩を踏み出す者でありたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1. 一般的序論(1:1-5)
当時、ヨシュアの指導のもとに、パレスチナ一帯がイスラエルに征服されたことは、歴史的な事実とされている。ただし考古学的な証拠からは、それがBC1400年頃の出来事なのか、それともBC1280年の出来事なのかを確定することはできない。しかしながら、この書は、ほぼそれ以前に書かれたものを元にしていることは間違いなく、著者はモーセと推定されている。
2.歴史的回顧(ホレブとベテ・ぺオルの間における神の力強い行為)(1:6-3:29)
 既にモーセは、晩年を迎え、死の直前であった。モーセは自分がその民とともにカナンの地に入って行くことができないことを知っていたので(民数記20:12、申命記1:37)、指導者として与えておかなければならない教えを、神が命じられるままに語った。そういうわけで、第一説教(1:6-4:40、)第二説教(4:44-26:19)、第三説教(29:1-30)、告別説教(30:44-33:29)と、四つの説教からなる。
第一説教は、モーセがこれまでのことを回想して語っており、この1章は、民数記10-32章に記された事件についての回想である。しかしそれは、前進のための回顧であった。前進するためには、前をしっかり見つめてビジョンを描かなければならないだろう。けれども、自動車のバックミラーが後進するためよりも安全に前進するために必要であるように、歩んできた過去の尊い経験を、特に神様の導きの手を回顧し、反省することが前進のために重要である。この説教は、荒野で生まれ育った新しい世代、出エジプトの歴史的事件を知らない世代に向けて語られている。
1)占領における最初の試み(1:6-46)
(1)契約に基づくモーセの命令(1:6-8)
イスラエルが神を知るようになったのは、神話的または神秘的、哲学的な議論を通してではなく、モーセを通して直接ご自身の存在を明らかにし、語りかけられたことによる。そこでモーセは、新しい世代に対して、古くから与えられている神の約束を示しながら、エジプトから解放されたイスラエル人が、なぜ荒野に留まり続けているのか、それは、不信仰の故であったことを思い起こさせている。そして「向きを変えて出発せよ」と語りかける。新しい人生に踏み進むということは、勇気のあることだ。どんな明日が待ち構えているかわからない、と思うからこそ、神の約束と誓い信頼して踏み出していかなくてはならない。神に対する不信仰の故に、荒野に留まり続けるか、それとも神に信頼して一歩を踏み出すか。荒野からの脱出には、もう一度出エジプトの時と同じように、すでに与えられている神の約束に信仰的に応じる必要があった。不毛不作の人生、荒野に放置されたままの人生にある、と思うなら、そこから脱出する方法は、神の声に真摯に耳を傾け、心から信頼して応答することである。神は言う。「見よ。私はその地をあなたがたの手に渡している」(8節)歴史を支配しておられる神が、新しい未来を私たちに約束されている。だから、信仰をもって「どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなた方に約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように」(11節)と祈り合い、従っていくことが幸いなのである。このように信仰は具体的な生活の中で体験しつつ学ばれるものであり、善意なる神に未知の明日の結果一切を委ねて踏み出していくものである。
(2)指導者たちの任命(1:9-18)
さてモーセは、出エジプト18:13-26の場面を回想している。あの時、モーセは、大勢の民を治め裁くことに疲れ果ていて、神の働きを担うことのできない弱さを深く意識していた(9節)。アブラハムに対する神の約束は、イスラエルの不信仰とは別に、現実化し、アブラハムの子孫は、「空の星のように多く」なるまでに増えていたのである。このように数えきれないほど多くの民を治めるために、「知恵があり、判断力があり経験に富む人たち」の助けが必要であった。アブラハムへの約束の実現は、現実的には、さばきつかさの任命と、軍事上の組み分けなど、(16節)神の民の組織化という現実的な課題に繋がったのである。これらは何を語っているのか。この箇所は挿入的な内容であるが、それは同時に、信仰生活をここまで建てあげて来たことが回想されている。つまり、私たちは信仰生活を進めていく時に、感激的な時を持つ努力を忘れてはならないのであるが、信仰生活の年限を正しく重ねていくためには、それだけではだめなのである。感激的な経験とともに、信仰者としての組織的な努力が必要なのである。個人においては規則的な生活づくり、正しい意味での癖を信仰生活の中に形成していくことであろうし、さらに教会においては、其々に与えられているタラントに応じて、重荷を負い責任を果たすことができる秩序作りが必要である。それは、単に階層化を進めるというのとは違うものである。神の祝福はそのような苦労、努力とともに与えられていく。個人として、また教会として、良識のある組織化が必要である。聖霊は、秩序ある信仰生活の確立のための努力を祝福してくださる。そうすれば感激がない時にも、信仰生活は継続される。個人的な信仰のスタイルを確立すると同時に、教会において、自らの役割を得て、自らを生かすことを考えることだ。神の多くの祝福を受けようと思うならば、兄弟姉妹の中に自分自身をしっかり位置付けることである。一匹狼的なクリスチャンにならないように注意したい。
(3)ホレブからカデシュ・バルネアへ(1:19-46)
 この回想は、民数記13-14章に語られている出来事の要約である。すべてのことが、イスラエルを約束の地へと迅速に、安全に導くために行われたのであるが、イスラエルは、神の命令に対して反抗し抵抗してしまったために40年間その地の外側に留まることを余儀なくされてしまう。しかしモーセの回想の言葉の中に、神がどんな方であるかが語られている。イスラエルの民は、「主は、私たちを憎んでおられる」(27節)と考えたが、神は、「あなたがたに先立って行かれる神」(30節)である。また「あなたがたのために戦われる」神である(30節)。さらに「全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれる」(31節)のだ。
イスラエルの継続的な不信仰と不従順の故に、わずか11日の旅路が40年の旅路となり、最初の世代が死に絶え、新しい世代が成熟するまで、イスラエルは荒野を放浪しなくてはならなかった。神は輝かしい勝利へと導こうとされていたが、彼らは神をそのように考えず、つぶやき、自分たちの目の前の脅威に執着し、自らこころをくじき、不信仰の中に留まり続けた。しかし、神が先立ち戦われる神であることに変わりはなく、またたとえ私たちが不従順であるとしても、神が私たちを見捨てずに、共におられることに変わりはない。問題は不信仰の心を捨て去り、主がまさに召し出してくださる時に、しっかり信仰によって応答できるかどうかにある。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(ヨハネ11:40)と語られる神のことばを胸に、前進することなのだ。
神の存在を認め(30節)、神の業を認め(30節)、神のご性質、つまり神の限りない愛と慈しみを認め(31節)、未知の世界に踏み出す勇気を持つ、これが信仰である。神の約束があるからといって、私たちはそれに自動的に祝福に与るわけではない。周囲の目に見える事情に左右されず、先導される主を信頼し、従っていくことである。主の前で泣かなければならない苦しみがあるならば、その現実を逃避することなく受けて、神様の導きが何であるかを待ち、乗り越えていくことであろう。