ヨシュア記2章

ヨシュア記2章 二人の斥候

<要約>
皆さんおはようございます。選びの民ではない、遊女ラハブが、選びの民の中に加えられるエピソードです。遊女ラハブは、赤いひもと血のしるしによって、イスラエルの聖絶から守られて行きます。そこにイエス・キリストの十字架の意味が明確に示されています。それは、十字架は、神の怒りと呪いから私たちを救い出すもの、私たちが神の者として守られることのしるしでした。この十字架に留まり歩むことが私たちの祝福の始まりであるのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.天の神、地の神である主
 ヨシュアは、エリコの町を攻略するために、斥候を遣わした。エリコの王はそれと気づき彼らを捜し出すのであるが、遊女ラハブによって、彼らは匿われ、助け出された。ラハブは、イスラエルの民がどのような民であるかを知っていた。彼らがエジプトから出てきた時に、神が葦の海の水を涸らされたこと、またエモリ人の二人の王を聖絶したことを、聞いていたのである。ラハブは、「主は、上は天において、下は地において、神であられる」とイスラエルの神に対する信仰を明確にしている。この信仰告白、実は、アブラハムの信仰告白そのものである。アブラハムが年を重ねて老人になった時、アブラハムは、神に対して「天の神、地の神である主」という呼び方をしている(創世記24:3)。実に、私たちの神は、天の神であり、地の神である、万物の創造者であり支配者であるという認識が大切なのだ。
 しかししばしば私たちには、地の神がおられるんだったら、なぜ私たちのこの地の状況は、こんなにも複雑で、見通しが悪いのか、と思うようなことばかりであったりする。神は地の神であっても、私の神ではないことがある。あの人の神ではあっても、私の側に立ってくれる神ではない、と思うことがあるだろう。
2.赤いひもと血のしるし、十字架の神秘
 しかしそうではない。あくまでも神は、私の側に立つ神であることを知らなくてはならない。どのようにしてか。ラハブは、信仰告白をし、二人の斥候に命乞いをしている(12、13節)。これに対して二人の斥候は、真実と誠実を尽くす約束をした。そして赤いひもを窓にしるしとして結びつけるべきことを語った。そしてこのしるしを離れて戸の外に出るなら、その血の責任はその人に帰すという。出エジプトの最後の災いを思いださせる約束である。最後の災いでは、かもいと二本の門柱の血が目印となり、滅ぼす者がその家を過ぎ越して災いを下さなかった。赤いひもと血が、神がラハブを認め、災いを下さないと見過ごし守る、重要な目印となった。
ラハブは、遊女であり、異邦の民である。選びの民ではない。しかも神の民の倫理からすれば、甚だしく神に忌み嫌われ聖絶の対象とされる存在である。しかし、遊女ラハブは、赤いひもを神の守りのしるしとして与えられる約束を交わしている。私たちにとっての赤いひものしるしは、イエスの十字架の血潮に他ならない。私たちにとって、神が私たちの味方ではない、と思うことは幾度もあるかもしれない。しかし、神は私たちに、イエスの十字架の血潮を、真実と誠実を尽くす約束として与えてくださっている。そこから離れるな、とそこから離れるならばその血の責任はあなたにあると。
3.主イエスの十字架への信頼
 ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう」(21節)。たとえ自分が、遊女ラハブのように神の愛に程遠いと思わされようとも、神が約束されることばは真実である、と神のおことばどおりにする気持ちが必要である。イエスの十字架の死を自分の罪の赦しのため、としっかりと受け止め、イエスの側を離れず、イエスにあって神の真実と誠実を得させていただくのである。イエスの十字架の血潮は、私たちの罪の赦しのために流されたものであり、天の神、地の神の守りを得させるものである。イエスの十字架の血潮のしるしの故に、天の神、地の神は私たちの神となり、私たちに真実と誠実を尽くされる。イエスの十字架の血潮のしるしを、心の窓枠に結びつけよう。そして、神との個人的な守りの中に歩ませていただこう。

ヨシュア記 1章 後継者ヨシュア

<要約>
皆さんおはようございます。今日からヨシュア記に入ります。いよいよ、約束の地カナンへと入り、その土地を自分たちのものとする戦いが始まります。そのためにヨシュアが語ったことは、約束が既に私たちのものであること、また、主の律法に忠実であり続けること、相応しい備えと力を得ること、そして何よりも指導者のために祈ることでした。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

モーセの後継者として、ヨシュアが立てられた。ヨシュアは出エジプトの当初からモーセの従者として活躍していたが、ヨシュアを後継者として定めたのは主である(民数27:12-23)。モーセが死んで後、神はヨシュアに語られる。ヨルダン川を渡り、カナンを所有するように、と。
40年前のこと、ヨシュアはカナンの地を偵察した。その地が豊かであると同時に、そこに住む者たちの恐るべき力も知った。そしてイスラエルの民が、この主のチャレンジに応じることができず、不信仰と不従順の荒野の40年を過ごしきた様を目の当たりにしてきた。今、ヨシュアはモーセに代わってこの民をまとめ、カナンの地へ導かなくてはならなかった。果たしてその使命をどのように達成しうるのか。ヨシュアには全く見当がつかなかったことだろう。ヨシュアが置かれた状況は決して簡単なものではなかった。
1.既に祝福は私たちのものである
そのようなヨシュアに、主は命令と同時に、特別な励ましを与えられる。すでに約束の地はヨシュアの手の中にある(3節)、と。また、「あなたの前にたちはだかる者はいない」し、「モーセとともにいたように、あなたとともにいよう」(5節)と語る。大切なのは、この神の約束を信じて、足の裏で、約束の地を実際に踏み進んで行くかどうかにある。神は、今日の私たちにも、イエスの名において一切のものが私たちの手の中にあることを確信させている(ヨハネ14:13)。それらは既に手中のものとなっている。大事なのは、それを確実に自分のものとするように、勇気ある一歩を踏み出し、進んで行くことである。
2.主の律法に忠実であり続ける
またヨシュアは、モーセに啓示された「主の律法」に忠実でなければならないと教えられる。この律法こそ、イスラエルの民をユニークな存在とし、また祝福をもたらしたものである。神は、ご自身のみことばを昼も夜も絶えず口ずさみ、行うように命じられる。それは繁栄へ至る秘訣である。気まぐれに従うのではなく、すべて真心をこめて従うのである。何をどうしてよいかわからなかったら、まず神のみことばに自分を浸す所から始めてみよう。それが主に従う第一歩なのだから。
3.戦いに備える
さてヨシュアは、神の励ましと命令を受けて、民に戦いに備えるように命じた。まず糧食を備えることが命じられる。戦うためにはそれなりの備えが必要である。
次にヨシュアは、ルベン人、ガド人、マナセの半部族に対し、積極的な参戦を促した。すでに彼らはヨルダン川の東部に定住していたが、いまだ相続地を得ていない同胞のために、先頭に立って戦いを支援するように求められた。彼らがヨルダン川の東側に安住することができるのは、カナンの地の征服が完了してからである。霊的に奮闘している兄弟姉妹への配慮をいつも失わず、自発的、積極的に手助けする、それが余力のある者に期待されることであった。また、そのように働く者こそ、自身の安住をますます確かなものとすることができる。
人は自己中心な者である。キリスト信者になったとしても、そんなに簡単に自己中心性の性質は正されていくものではない。他人のために尽くしているようであっても、それは表面上のことだけで、実際には自分のためであったりする。自分に何か利するところがあるからこそ、やれることであったりする。純粋に、神の家族全体のために心を尽くし、神の栄光を現す教会を完成するために行動する、そのようにはなかなかならないものである。しかし、そのような自分の罪深い人間性を理解した上で、ただ主の恵みが豊かにあり、自分自身が変えられるように、とどこかで新しい自分に生きる決意を固めることも必要だ。
4.指導者のために祈る
 「あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように」(17節)。信徒がそうであれば指導者も同じだ。指導者も主の恵みに支えられて、主の恵みによって、本当に私利私欲を超えた、神の御心に生きる働きが導かれ、守られていく必要がある。そのために、指導者のために祈ることは一層強調されなくてはならない。祈られる指導者こそ、神の民の働きに本当の意味で霊的な実を結ばせることになる。

2章 二人の斥候
 ヨシュアは、エリコの町を攻略するために、斥候を遣わした。エリコの王はそれと気づき彼らを捜し出すのであるが、遊女ラハブによって、彼らは匿われ、助け出された。ラハブは、イスラエルの民がどのような民であるかを知っていた。彼らがエジプトから出てきた時に、神が葦の海の水をからされたこと、またエモリ人の二人の王を聖絶したことを、聞いていたのである。ラハブは、「主は上は天、下は地において神であられる」とイスラエルの神に対する信仰を明確にしている。この信仰告白、実は、アブラハムの信仰告白そのものである。アブラハムが年を重ねて老人になった時、アブラハムは、神に対して「天の神、地の神である主」という呼び方をしている(創世記24:3)。実に、私たちの神は、天の神であり、地の神である、万物の創造者であり支配者であるという認識が大切である。
 だが、しばしば、私たちには、地の神がおられるんだったら、なぜ私たちのこの地の状況は、こんなにも複雑で、見通しが悪いのか、と思うようなことばかりであったりする。神は地の神であっても、私の神ではないことがある。あの人の神ではあっても、私自身の側に立つ神ではない、と思うことがあるだろう。
 しかしそうではない。あくまでも神は、私たち自身の側に立つ神であることを知らなくてはならない。どのようにしてか。ラハブは、信仰告白をし、二人の斥候に命乞いをしている(12、13節)。これに対して二人の斥候は、真実と誠実を尽くす約束をした。そして赤いひもを窓にしるしとして結びつけるべきことを語った。そしてこのしるしを離れて戸の外に出るなら、その血の責任はその人に帰すというのである。出エジプトの最後の災いを思いださせる約束である。最後の災いでは、かもいと二本の門柱の血が目印となり、滅ぼす者がその家を過ぎ越して災いを下さなかった。赤いひもと血が私たちを神の者として守る重要な目印となる。
ラハブは、遊女であり、異邦の民である。選びの民ではない。しかも神の民の倫理からすれば、甚だしく神に忌み嫌われ聖絶の対象とされる存在である。しかし、遊女ラハブは、赤いひもをしるしとして与えられ、聖絶から守られる約束を交わされている。私たちにとっての赤いひものしるしは、イエスの十字架の血潮に他ならない。私たちにとって、神が私たちの味方ではない、と思うことは幾度もあるかもしれない。しかし、神は私たちに、イエスの十字架の血潮を、真実と誠実を尽くす約束として与えてくださっている。そこから離れるな、とそこから離れるならば、その血の責任はあなたにあると。
 ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう」(21節)。たとえ自分が、遊女ラハブのように神の愛に程遠いと思わされようとも、神が約束されることばは真実である、と神のおことばどおりにする気持ちが必要である。イエスの十字架の死を自分の罪の赦しのため、としっかりと受け止め、イエスの側を離れず、イエスにあって神の真実と誠実を得させていただくのである。イエスの十字架の血潮は、私たちの罪の赦しのために流されたものであり、天の神、地の神の守りを得させるものである。イエスの十字架の血潮のしるしの故に、天の神、地の神は私たちの神となり、私たちに真実と誠実を尽くされるのである。イエスの十字架の血潮のしるしを、心の窓枠に結びつけよう。そして、神の守りの中に歩ませていただこう。

申命記34章

申命記34章 モーセの死と結語
4.モーセの死と結語(34章)
皆さんおはようございます。申命記を読み終わりますね。モーセの死から多くのことを学びます。私たちは、誰もが死を迎えます。大事なことは、神にその死を取り扱っていただくことでしょう。み言葉と祈りを通して神と共に歩む地道な一歩一歩が、有終の美を飾るのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1)モーセの死(1-7節)
 申命記の最終章は、モーセの死の記録である。モーセは主に命じられてピスガの頂に登った。そこで主は彼に約束の地を見せている。「ギルアデをダンまで」は、死海の北東端の東9キロ、ネボ山と同定されるピスガからはるか北になる。「ナフタリの全土、エフライムとマナセの地」いずれも北側の地であるが、エフライムとマナセは、ナフタリの手前に位置した。「ユダの全土を西の海まで」は、ピスガから西側と南西側である。つまり、北側から始まり、西側、そして南西側へと視線が動いていく。モーセは、パレスチナ全土を眺望した、ということだ。
しかしながら、ピスガの頂は、ヨルダン川の東部に位置し、標高は700メートルである。つまり、パレスチナ山脈にさえぎられて西側の海を見通すことは実際にはできない。だから、実際に肉眼で見たというよりは、信仰によって見た、ということなのだろう。
ともあれその地は、主なる神が、アブラハム、イサク、ヤコブに対して「あなたの子孫に与えよう」と誓われた地である。となれば、地理的な広がりのみならず、歴史的な流れの中から、モーセはその地を眺めていたというべきだろう。つまりモーセは神の視点からその地を見ている。実に、信仰を持って何事も見ていくのでなくして、新境地などありえないことである。
 モーセが死んだ時は120歳であったが、「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とされる。しかし、その身体は確実に衰えていたのであり、モーセはもはや、「もう出入りができない」(31:2)と語っている。人は老いていくものだ。日々刻々と老いているのに、それに気づかない。人は、神の任務を背負い、その働きを遂行し続けながらも、確実に老い、退く時を迎えていく。神は人それぞれに任務の完了の時を与えておられる。  
またモーセは、主の命によって、つまり主のことばのとおりにモアブの地で死んだ(6節)。大切なのは、そこで「主は彼を葬られた」とあるように、モーセを葬ったのは主であることだ。主ご自身がモーセの労をねぎらい、葬ってくださった。
 モーセは、神のみこころに生き、神のみこころのうちに死を迎えた。もし、神のみこころに生きる事に徹するならば、神が私たちを葬り、迎えてくださることだろう。そして死に際して重要なのは、葬儀が荘重に行われ、この地に足跡を残すよりも、確実に神の御手によって葬られ、神に迎えられることだ。身体は土に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。となれば、神畏れ、神に従うことが、最善の終活となる。
2)イスラエルの前進
またモーセは神の召しに忠実に生きた。彼は、エジプトを懐かしみ、過去に戻ろうとするイスラエルの民を前進させ続けた。約束の地にまでモーセは同行できなかったが、いつでもモーセはイスラエルの民に約束の地を指さし、これに向かわせた。神に立てられた指導者の任務は、民に前進を促すことである。うなじの固い民と称された者たちに、戒めと励ましを与えながら神のみこころに沿うように、前進させ続ける、そこに真に神に従う指導者の責務がある。それはまたイエスの働きを象徴している。神はイエスを通して、私たちには出エジプトに等しい罪からの解放を成し遂げてくださったからである。
「モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わり」新しい指導者ヌンの子ヨシュアが立てられる。「イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられた通りに行った」(9節)と言う。神の民は、新しい指導者に導かれて新しい章を開いて行く。どのように死を飾るかではなく、死に至るまでの最期までのプロセスを大事にしたいものである。

申命記33章

申命記33章 モーセの祝福のことば
皆さんおはようございます。本日は、モーセの祝福のことば。32章と34章の流れからすれば唐突でもあり、モーセ自身によるものではない箇所、つまりヨシュアが書き加えたのではないか、とされる部分です。そこには、主の祝福の関係の中に入れられている、神の民の現実が語られています。主の祝福の中にあることを覚え、今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
3.モーセの祝福のことば(33章)
1)序(33:1-5)
 1節の前置きは、この祝福のことばがモーセの手によるものではないことを示唆している。恐らく、ヨシュアによって書かれたのだろう。またそれは、イスラエル12部族への祝福のことばでありながら、シメオンについては語られていない。いくつか解釈の難点のある章でありながら、全体の構造を見ると、三つに区分される。イスラエルの民全体に対する祝福(2-5節)、各部族に対する祝福(6-25節)、そして再びイスラエルの民に対する祝福となるように(26-29節)。
 「シナイ」「セイル」「パランの山」いずれも、神がご自身の栄光を現してくださった所である。イスラエルの荒野の40年間を振り返り、主が、民を愛してくださっている、と言う。3節、口語訳は、「国々の民」を、単に「民を」と訳している。新改訳では、ヘブル語の複数形を意識したのであろう「もろもろの民を」と訳すが、原語は曖昧で、イスラエルの諸部族とも、イスラエル以外のすべての国民の意味にも取れる。「エシュルン」はイスラエルの別称である。32章にもすでに出てきているが、旧約聖書にはこの章を含めてイザヤ書にあるだけで、全部で4回しか出てこない。「正しい者」「高潔な者」を意味する。これはイスラエルと同義に使われているようでありながら、実際には、ヤコブ、イスラエル、エシュルンと使い分けられていることから、イスラエルの中の神の民について、特に理想的な神の民としての存在を表現している。主はイスラエルの神である。そのイスラエルの特徴は、主の御告げを受けるところ、つまり、絶えず神の御元に集められ、教えられ、従い、その祝福に与る者である(3節)。
2)各部族への祝福の言葉(33:6-25)
 各部族への祝福のことばを見ていこう。ルベンは、存続が困難な中で、部族として守られていく、それが祝福であると言っている。ユダは、常に民の先頭を進む。その民が敵から助けられる、それが祝福であると言う。これはむしろとりなしに近い。本来ならここにシメオンの祝福が入るのだろうが、それは、省かれている。レビの祝福は、まさにその職務を全うすることだ。すなわちトンミムとウリムを用いて神の御旨を伺い(8節)、御教えをイスラエルに教え(10節)、宗教的な儀式をつかさどること(10節)である。牧師の祝福もまた、祈りとみことばに徹することに他ならない。生活手段を持たない部族であればこそ、その働きに徹することによって生活が守られ、恵みが施される。
 ベニヤミンは、ユダと同じく、激しく戦う部族であればこそ、主の守りが祈られる。ヨセフには物的祝福が祈られているようであるが「柴の中におられた方の恵み」とあるようにそれが天の神による祝福であることに注目すべきだ。この世的な繁栄は、主の支配の中にあってのこと、私たちはその現実をよく理解しなくてはならない。ゼブルンとイッサカルは対照的に語られるが、物的な繁栄の中で義のいけにえを捧げる民であることが祝福として語られる。ガドもまた、主の正義と公正を行うことが祝福である。ダンは勇敢であること、ナフタリは主の恵みの中に生き、アシェルも主の恵みに、具体的にオリーブの産出(油)に恵まれることが語られる。
3)結び(33:26ー29)
最後は、賛美で結ばれる。しかし単なる神賛美ではなく、ちょうど序言と考えられる2-5節がそうであったように、ここでも主とイスラエルの民との関係が示されている。主の祝福は、エシュルン、つまり選ばれた神の民が、約束のとおりに約束の地に住まうようになることにあり、主の栄光を証しすることにある。27節、「永遠の腕が下に」は、「下には、永遠の腕」が直訳である。つまり、神の腕が永遠に私たちを支えてくださると言う。人生には底なし沼に陥ったかのように思われることがあっても、神が私たちの足を支えてくださる。神は、私たちが沈むことのないように守ってくださる。大切なのは、神の栄光を現わす祝福の道を選び取って生きることだ。神の義を立てる祝福に心を向け、祝福を選び取っていく、それが主に救われた民の人生である。

申命記32章

申命記32章 モーセの歌
皆さんおはようございます。私たちの人生の目的は、神に栄光を帰すことにある。すっかり業界用語、業界フレーズとなったことばですが、実際に意味するところは、皆が天地創造の神の偉大さを認め、崇めるようになる、ということでしょう。神を喜び、神のなさることを大事にし、神に仕えていく、今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
2.モーセの歌(32章)
1)呼びかけと讃美(1-4節)
 モーセの歌と呼ばれる、一章である。これは、約束の地での新しい生活に備えて、モーセによってイスラエルの民に教えられた歌である。それは、神の民を養い育てることばであり、露、小雨、夕立ちのごとくである、と言う。そしてその目的は神に栄光を帰すことにある(3節)。イスラエルを愛する主は真実なのだ(4節)。
2)叱責と恵み(5-18節)
 4-43節全体がモーセの説教となる。まず、真実を尽くす神の前にあって、イスラエルの現実がどんなものであるかが明確に語られる(4-6節)。イスラエルは、真心を持って神の召しに応えるどころか、主に背を向け、恩を仇で返す者たちであった。しかしこれは警告である。そしてむしろ、神がどれほど恵みと祝福をもって彼らを導いて来られたかを思い起こすように、教えている(7-14節)。8節以下はその具体的な内容だ。
 神は人間にその住み着くべき地を備えられた、そして出エジプトと荒野の旅を導かれた。それなのにイスラエルは主の恩を忘れ、背教へと進む(15-18)。これは、後代の作者が、カナンの地におけるイスラエルの民の背信的行為を回顧して述べているのではなく、むしろ、ヘブル詩としては完了形で詠まれている、カナンの地における預言的警告である(18節)。モーセはそういうことが起こらないように、と語り聞かせた。しかしイスラエルの民は、後の歴史が示すように、警告に聞き従わず、悲しむべき偶像礼拝に落ちていったのである。だからその後の民は、これをモーセの律法の一部として、警告として幾度となく読んだのだろう。
天と地をお造りになり、支配しておられる神は、人それぞれを地に住まわせ、決められた時代に生きるようにさせてくださっている。パウロは、それが神の配慮によるものであることを語っている(使徒17:27)。人が神を見出すために、神が定めてくださったそれぞれの人生である。その神の栄光を現すように生きるのが、人間の道なのである。
3)裁きの宣告(19-25節)
 しかし人間の現実はそうではない「ねじれた世代、真実のない子ら」(20節)である。身勝手な人間を、神は黙認しておられるお方ではない。神が御顔を隠すのは、祝福から分離されてしまうことであり、神から見捨てられた存在になることだ(民数6:25-26参照)。
21節は、並行法を用いた詩文であり言葉遊びがある。イスラエルは「神でないもの」で主のねたみを引き起こし、神は「民でない者たち」で、ユダヤ人のねたみを引き起こす。「民でない者たち」が何を意味するのか明確ではないが、ローマ9-11章にある、パウロの議論を思い起こすような記述である。ともあれ、神は、ねじれた世代、真実のない子らに裁きを宣告される。17章では、既に王政に対する定めが預言的に語られていたが、ここも後のアッシリヤやバビロンによるイスラエルの裁きを預言的に語っているようにも思われるところであるが、単純に神に背を向けることへの裁きという一般的原則を明確に語っている、と理解してよいだろう。
4)救いの希望(26-43節)
そして裁かれる神は「殺し、また生かす」方(39節)、「傷つけ、またいやす」方(39節)である。神は裁き主であるが、同時に哀れみ深い方である。いつまでも怒ったままでおられることはない。私たちを救い出そうとされる。今の時代にあっては、イエスの十字架がその証しとされる。神は、私たちにご自分の一人子を遣わし、私たちが主にあって変えられるように導いてくださる。自ら罪の頑なさに躓いたペテロも語っている「(イエスは)自から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」(1ペテロ2:24)
5)近づくモーセの死(44-52節) 
 内容的に44節は31:30と同じであるが、モーセの後継者となるヌンの子ヨシュアがホセアと呼ばれ(民数13:16)、モーセと同行したとされる。ヨシュアはモーセの歌を身近に耳にしながら、後継者として立てられていく。
ともあれイスラエルの民は、この歌を聞きながら、神の真実さ、神の正しさを覚え、さらには、神の永遠に変わらぬイスラエルの民に対する愛を覚えさせられたに違いない。44-47節はその要約である。歌で教え示したことを心に留め、その子孫にも教え、イスラエルの民の生き方とすべきだ、と力強く語っている。
続いてモーセの死が宣告される(48-52節)。それは神の定めであったが、モーセにとっては自分の使命が終わることを認識し、後継者ヨシュアに大きな期待と信頼を託す機会となったはずだ。モーセがそうであったように、私たちにとっても大切なのは、神のご計画の中で、自分の与えられている位置と責任をたとえそれがどんなに小さく、外面的には人々に知られないようなものであっても、忠実に果たしていくことだ。それがあってこそ、イスラエルの民のカナン定住も可能になった。
モーセは既に神の御教えを露、小雨、夕立にたとえている(2節)。それは、大地を潤し、草花に活力を与え、種に芽を出させ、収穫の実りを豊かにするものだ。同じように、私たちも、神のことばの恵みによって、私たちの霊的な実を豊かに結ぶことになる。神の言葉に従うことによって、神に栄光を帰し、約束された祝福を受け継ぐ者とされる。私たちは種々従うことができない理由を並べ立てがちであるが、素直に、神を認め、神に従うことが私たちの最善なのである。