申命記9章

申命記 9章 イスラエルの背きの罪
<要約>
皆さんおはようございます。イスラエルの背きの罪と、イスラエルが滅びないために、イスラエルの民のために傷みながら、知恵をもってとりなしたモーセの心の内が明かされます。モーセは偉大な指導者でしたが、実際には、イスラエルを愛する親というべき存在でした。彼は知恵ある交渉人、民の利益を図る者だったのです。そこに、私たちの成長の目標も示されていると言えるでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
5.イスラエルの背きの罪とモーセのとりなし(9:1-10:11)
1)イスラエルの義の結果ではなく、主の意志の結果である征服(1-6節)
イスラエルの民がカナンの地を所有できるのは、イスラエルの民たちが正しいからではなく、カナンを占領していた諸民族、たとえばアナク人が悪いためであった。2節、敵対者アナク人の強さが、大げさに描かれている。彼らの道徳的堕落のひどさは、レビ記18:2-23によっても伺い知ることができる。だから主ご自身が「焼き尽くす火としてイスラエルの前を進み彼らを根絶やしにされる」のである(3-5節)。
そしてこのような祝福を与えられたイスラエルの民も、アナク人と五十歩百歩であった。6節、「うなじ」は、首の後ろ、襟首の部分を指す言葉である。イザヤ48:4では、「首筋」と訳されている。「うなじが固い」とは強情なことで、頑固なことを表現している。くびきを着けられることを拒み、首を立て、うなじを固くして、抵抗する牛のしぐさから来ていて、神への不従順を表現している。確かに彼らは、出エジプトからここに至るまで、主に逆らい通しであったのであり(7節)、こうして主が彼らを祝福されたのは、彼らに対する神の愛と先祖たちに対する誓いのためなのである(5節)。
カナン征服を実現させたのは、主ご自身であり、イスラエルではない。イスラエルは何か自分たちに優れたものがあったから、この戦いに勝ったと言うことはできない。
2)イスラエルのかたくなさ(9:7-24)
7節以降、神に逆らい通しの具体例が過去を振り返る形で描かれている。主要な事件は、金の子牛の出来事(8-21節)、その他タブエラ(民数11:1-3)、マサ(6:16)、出エジプト(17:2-7)、キブロテ・ハタアワ(民数記11:4-34)、カデシュ・バルネア(民数13:25-14:12)での事件(22-23節)で、簡潔に語られている。先の5:15では、神が力強い御手をもって自分たちをエジプトから救い出してくださった恵みの事実を覚えているように命じられていたが、ここでは、荒野において自分たちが、その神に逆らい通しであった事実をも覚えているように求められている。それは、このように不従順な自分たちを、なお生かして下っている神が、今自分たちに何を求めておられるかを、神のみおしえによって、彼らが知るようになるためである(10:12,13)。
また回顧の中で、モーセのとりなし(18-20節、25-29節)はイスラエルの反抗(7-17節、21-24節)と対照的に描かれている。実際申命記においては、モーセの仲保者としての役割が強く意識され、強調されている。モーセのアロンのためのとりなしも、申命記独自のもので、出エジプト記、民数記には記録されていない。しかしこれらの記事によって強調されるのは、イスラエルに対する主の愛と憐れみである。
3)モーセによるとりなしの祈りのことば(25-29節)
モーセの仲介者としての労が語られる。モーセのとりなしと神の忍耐がなければ、イスラエルはホレブで滅びていただろう。悲しいことにイスラエルは強情であった。彼らが存続するためには、神の継続的な忍耐とモーセの繰り返されるとりなしを必要とした。
しかしモーセが仲介者となり、とりなし手となることは、実際には、イスラエルの罪のゆえに苦しみ、痛み、知恵ある交渉人となることに他ならなかった。
彼はとりなしのために、常に、先祖アブラハム、イサク、ヤコブにお誓になった約束を取り上げた。神は約束するが、口先だけと言われることのないためである。確かに約束の地にイスラエルの民を連れていくと言いながら、その目的を完遂させないならば、人々は神の力に限界があると考えて、神を恐れなくなるだろう。また呪いと祝福という契約の賞罰も侮られてしまうことだろう。こうして、とりなし手としてのモーセの役割に注目される。モーセは、イスラエルのために多岐にわたり、偉大な働きをしたが、何よりもとりなし手としての働きに卓越していた。実際、モーセの自己を無にしたとりなしと、徹底して神の真実に訴え、神の約束の履行を願うその姿に、神のあわれみと忍耐も注がれたのである。モーセのように、とりなし手となる働き人が、今の時代であればこそ必要とされる。