申命記11章

申命記11章 神の御教えに生きる勧め
<要約>
皆さんおはようございます。本章は、モーセの第二の説教の締めくくりにあたる部分です。神は、何よりもまず神の御教えを愛することを語りかけていることに注目したいところです。それは、具体的に、神のことばを記憶する工夫と努力を要するものであり、神のことばに生きることの他なりません。神に近づく努力が何よりも求められているのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
(4)神の恵みによる祝福
①助けてくださる神(1-8節)
この時、イスラエルの民は、出エジプトの素晴らしい神の御業を見ながらも、まだ荒野にいて、安息の地の一歩手前で立ち止まっている状態であった。民数16:1-35のダタンとアビラムの出来事が取り上げられていることからすれば、どうやらモアブの野にいたのだろう。彼らは、約束された葡萄や穀物の収穫を得て、味わい楽しんでいたのではなく、ただ、ひたすらその安息の夢を抱いて、カナンに向かって出ていくのでもなく、荒野に留まるのでもない宙ぶらりんの状態にいたのである。それは、実に無為な時間であった。
イスラエルの民が置かれた、そのような状況は、私たちの教会設立の歩みの中にも容易に再現されうることで、私たちが将来完成できると約束されている事柄において、なかなか物事が進まず、またそのようになっていくにはあまりにも敵が強すぎるように思われ、さらに、ただただ無為な時が流れていくだけに感じられる、教会設立の初期の困難を全く知らない世代が起きてくることもある。
そこで神は言う。「あなたがたの神、主の訓練を、その偉大さを…」子どもたちは知らないが、あなたがたは見ている、と。あなたがたは、誰なのだろうか?具体的に考えてみれば、それは、38歳以上の者である。いわゆる40代以上の者であり、子どもたちというのは、荒野で生まれ育った、38歳以下の者たちである。
神は、壮年層に向かって「あなたがたは、私が、今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。それは、あなたがたが強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有するため、また、主があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地で、すなわち、乳と密の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」(8、9節)と語りかけられる。彼らがエジプトを出てきた時は、まだ子どもの時であった、しかし子どもながらに、神の素晴らしいい御業と神の恐るべき裁きを目撃してきた世代である。そしてその事実を知らない子どもたちを育てている世代である。そのような世代に向かって、神は、ご自分を愛し、心を尽くして、いのちを尽くして使えよ、と命じるのである。そして、神のみ教えに従っていくならば、あなたがたは強くなると、神は約束される。そして所有しようとしている地を所有することができるという。 
②神、主を愛し、仕える(9-25節)
イスラエルが出て来たエジプトの地と、これから入って行って所有しようとしている約束の地とが対比されている。「あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。 しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。」(10,11節)「自分の力で」の直訳は、「自分の脚で」である。エジプトの地は、降雨量は少ないが、ナイル川の水によって灌漑され、運河や用水路によって畑のそばまで届くようになっていた。しかし彼らは、その水を畑に組み上げるため、足で水車を回していたようである。自分の力で水をやらなければならなかった、そのような土地から天の雨でただ潤っている土地へとわたしたちは導かれるのだと言う。神の恵みは、必ず私たちの努力に対する報いであるかのように考えているところがある。しかし、そうではない。ある意味で、私たちが獲得のための努力をせずとも、祝福を得るような言い方である。確かに、神の恵みというのはそういうものだろう。私たちの努力とは別の所で色々と実を結んでいくことがある。もちろん、全く何もしなくてもよい、ということではない。ただ何をするにしてもまず、「神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えるという命令に、確かに聞き従う」(13節)こと、神の道からそれないことにこそ意を注ぐこと(16節)、そして「家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい」(19節)という部分を大事にして、なすべきことをなす、ということだろう。
③祝福とのろい、決断と選択への召し(26-32節)
大切なのは、神のみおしえを守って生きるという一点にいつも集中することだ。淡々とみ教えにしっかりと従っていくことである。それは、18-20節に教えられているように具体的な努力である。聖書日課でも、祈りでも、教会出席でも献金でも、目に見える形でカレンダーに記しを付けたり、日課表をペンで汚していくことが案外と大切なことではないか。
ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを、この儀式については、27:11-26に詳しい、そしてこれが実際にどのように行われたのかは、ヨシュア記8:30-35に記録されている。なお、ゲリジム山は、イスラエルの民にとっては、シェケムの聖所の右側にあり、エバル山はシェケムの聖所の左側にあった。東を向いて右は南側、左は北側。右は優位な地、祝福と考え、左(北方)はその反対と考えたのだろう。しかしここでは、右か左か、祝福かのろいかの二者択一を求めている。31-32節は、第二の説教の序論的な部分の締めくくりであり、明日から読んでいく、第三の説教(12-26章)の中心部分を語るものである。  
教会生活を通し、聖書を通し、祈りを通し、神は、私たちの心に語り掛けてくださる。しかし、それを受けるか拒むかは、私たちの自主的な決断による。神は何とかして祝福を与え、永遠の喜びに生かそうとして心を配ってくださるが、強制はされない。祝福を選ぶ歩みを、そして神の御教えに生きる具体的な歩みを大事にしたいものである。