士師記9章

士師記9章 アビメレク(9:1‐57)
<要約>
おはようございます。ギデオンの子アビメレクの統治です。しかしいみじくもギデオンが語ったことば、「主があなた方を治められます(8:23)」が真実となるエピソードです。私かに、主は生きておられ、主は、私たちの全てを支配されている。この主に信頼し、平安の内に、全てを委ね歩ませていただきたいところです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アビメレクの統治
エルバアル、つまりギデオンの子どものアビメレクの統治についての記録である。アビメレクは、父の意思に反して世襲制を望み、70人の兄弟を皆殺しにして自ら王位についたが、最終的に、その統治は3年と続かなかった。神は、一人の女の手によってアビメレクの悪に報い、難を逃れたギデオンの末子ヨタムののろいを実現した。このエピソードをどう受け止めたらよいのだろう。簡単に言ってしまえば、ギデオンの死後生じた内輪もめと権力闘争であり、神によって召されカナンの地を制定した士師たちの物語とはいささか趣を異にする。
ともあれアビメレクは策略をめぐらして行動した。彼が出向いたシェケムに住んでいる人々は、ギデオンが拒絶した王制を望む者たちであった。またシェケムの人々は、バアル・ベリテの神殿からアビメレクに銀70シェケルを与えた。権力と金を手にしたアビメレクは、それでごろつきを雇い、自分の兄弟を殺し王位を固めていく。末子のヨタムだけが逃れ、ゲリジム山の頂上から、シェケムの人々に向かって一つのたとえ話を叫んで言った。いばらの木は明らかにアビメレクを、すべての木々はシェケムの人々を象徴する。それは、アビメレクとシェケムの人々の滅亡を語りのろうものであった。
その後、神は、アビメレクとシェケムの人々の間に災いの霊を送った、という。こうしてシェケムの人々は略奪を繰り返し、治安を悪化させアビメレクの統治を妨害していく。そしてエベテの子ガアルとの妙な出会いが公然のクーデターへと発展した。ガアルは言葉巧みに28節「ハモルに仕えよ」、と先祖ヤコブの時代の古い恨みに訴えている(創世記34章)。つまり反ギデオンであり反イスラエルとしてシェケムの人々は蜂起していく。事態は、シェケムの役人ゼブルの助言により、アビメレクが軍を動かすことによって、収束させられた。しかし、事態はそれで終わらなかった。
2.神の統治
反乱は鎮圧されたが、アビメレクは、怒りを治めることができなかったのである。アビメレクはシェケムの町を全滅させるべく、翌日さらに軍を引き連れて行動した。シェケムを攻略し、さらにテベツへと向かった。ちなみに「地下室」は、「塔」とも訳される。塔の中に立てこもった人々を焼き殺したのだろう。勢いにのったアビメレクは、自らテベツのやぐらに立てこもった人々にも火を放とうと近づいた。その時一人の女の投げたひき臼の上石が頭に命中して、彼は死んでしまう。ひき臼は、直径30センチ、そのような石がうまく命中して死ぬというのは、まさに神の御手による。
ヨタムはアビメレクを呪ったが自ら手を下すことなく、アビメレクは葬り去られた。悪は悪の報いをもたらす。不正な手段で権力の座に着いた者は、さらに不正な手段によって権力を守らねばならない。しかし、神の前に義しく生きる者の恵みは大きい。
一見、一族の権力闘争を物語るエピソードであるが、一人一人の行いに正しく報いられる神の実在を教えられる。神は、侮られるお方ではない。人は種を撒いたらその刈り取りもすることになる。不本意に思われることがあっても、自ら裁くのではなく、神を恐れ、遜って神の裁きに委ねる心を持とう。

士師記8章

士師8章 ヨルダン川東岸での戦い(8:4‐35)
<要約>
おはようございます。ギデオンの晩年に教えられるところです。私たちはどうしても自分を重んじられない者ではないでしょうか。しかし、そのようなところに争いが起こり、様々な意味での罠があるのです。ただ主と共に生きることの喜びを深く味わっていきたいところです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.争わぬ知恵
「酒ぶねの中で小麦を打っていた」ギデオンは、今や、そんな過去を微塵にも感じさせない勇士になっていた。また、ギデオンの人間関係には柔軟さがある。戦いから除外されたために激しい抗議をしてきたエフライム人に対し、その自尊心を傷つけぬように、彼らの貢献に比べると自分の貢献など取るに足りないと答え、怒りと不満を巧みに処理している。もし、ギデオンがエフライム人の自尊心や嫉妬心に全く無頓着であったのなら、起こす必要のない衝突が生じていたことだろう。しかしギデオンは、自分の手柄にまさる相手の手柄をほめて、エフライム人の怒りを和らげた。まさに、「柔らかな答えは憤りを静める」のである。
2.戦う勘所
衝突を一応回避したギデオンは、さらに三百人の兵士たちと一緒に追撃を続けているが、その途上、自分たちに兵站協力を惜しんだスコテとペヌエルの人々には手厳しい処罰を下している。スコテはガド族の割当の地である。彼らは、デボラとバラクの戦いの時にも参戦をしていない(5:15-17)。この戦いに勝算があるかどうかわからなかったからなのだろう。ギデオンは確かに大勝利を収めたかもしれないが、ミディアン人の王ゼバフとツァルムナは逃走を続けていた。彼らが再武装をして反撃してくる可能性もないわけではなかった。結局日和見的な判断に終始し、この戦いが神から出たものであると受け止める力のないスコテの人々は、部族の結束を破壊するだけであった。争うべきは、不信仰であり、神に対する姿勢である。だからここは、イスラエルの内輪もめと理解するよりも、不信仰に留まった者に対する神のさばきと理解すべきところなのだろう。
3.主の支配の中に身を置く
22節以降は、ギデオンの晩年である。ギデオンは、イスラエル人に世襲制による支配を求められた。しかし彼は答えている。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます」と。彼は明確に、主の統治に、イスラエル人が目を向けるべきことを言っている。教会のリーダーシップも同じである。人が統治するのではなく、まして世襲的にその統治が続くのでもなく、ただ、主が中心とされて主に治められる教会が、神の教会である。別の言い方で言えば、主の支配の中に皆が自らの身を置いていくことである。ギデオンに、一見、地位や権力に執着する人間的な弱さは見受けられず、ただ神が最高司令官であることへの確信があるのみだ。
しかし、表向きはそうであったが、ギデオンも人間である。彼の弱さは、別の形で現れた。彼にもまた重んじられることを求める心がなかったわけではない。ギデオンは、分捕り物で、エポデを造った。ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で1700シェケルであったという。約18000グラム、18から34キロの重さである。エポデは、大祭司の装束の一部であって、胸当てのようなものであったり、占いの道具であったり、様々な形で使われる。もちろん、そこには、アロンやヤロヴァムが牛の像を作って(出エジプト32:4、1列王12:28)、背教に導いたような意図はなかっただろう。ただ神が自分に語り、自分が従って勝利を得たことを記念したかったのだろう。しかしそれは、自分が重んじられることの裏返しにもなったのである。そして罠となった。
大切なのは、ただ神と共に生きる喜びを大事にすべきことなのだろう。そして、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」と言われた主のことばを信条として生きることなのだろう。

士師記7章

士師7章 ヨルダン川西岸での戦い(7:1-8:3)
<要約>
おはようございます。ギデオンの物語はいつ読んでも、大いに励まされます。聖書通読の重要さは、こうしたエピソードが、人生の必要時に思い出されることです。人生の様々な場面で、ヨセフ物語が思いこされ、アブラハムやロトのエピソードが思い出され、そしてギデオンのエピソードが思い出され、神の語りかけとして響き、自分が直面している課題を乗り越える力とさせられていくことです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神が明かされた戦略1(一塊の精鋭を整える)
 ギデオンは、ミディアン人と対戦するため、ギルボア山の北側の山麓にあるハロデの泉に兵力を結集した。一方ミディアン人、アマレク人、東の人々の連合軍は、五キロほど離れた、モレの山沿いの谷(平野)にあるエスドラエロンの平原に陣を構えた。それはちょうどイスラエルが、敵の連合軍を上から見下ろす布陣である。初夏の早朝のことであった。
 らくだ部隊で固められたミディアン連合軍は、兵力135,000、対するギデオンの兵力は、32,000である。しかし神は、そこでさらなる兵力の削減を求めた。まず戦力にならない「恐れおののく者」は家に帰された。兵力は10,000となった。次にテストによって更に間引きが行われた。ハロデの泉で水を飲む際に、「犬がなめるように、舌で水をなめる者、膝をついて水を飲んだ者」ではなく「手で水をすすった者」だけが残された。それは、①手で水をすすった者は、不意の攻撃に備える注意力がある、②膝をついて水を飲むのは、敵前では命取りになる不注意な行為であり、戦力にはならない、③膝をつく行為は、バアルに仕える偶像礼拝の習慣を暗示する、などと考えられたからである。兵力は300に絞られた。それはまさに「いなごのように」また「海辺の砂のように」見えたミディアン連合軍に、パンのかたまりが一つ転がり込むことに例えられるものであった(13節)。
300の兵力で135,000の陣営に攻め下るのは、(9節)無謀そのものである。しかし神の命令は、どんなことについても、信仰を増し加えるチャレンジとして、超常識的に受け止める必要がある。全ての勝利は神から与えられるものだからである。
2.神の戦略2(恐れを克服する)
しかしどのように勝つのか。主は、敵陣に下りその様子を偵察し、彼らが何を話しているのかを聞くように命じられた。それは、敵陣の戦力や配置を知り、作戦を練るための偵察ではなく、ギデオンの心によぎる恐れを、ひとりの者の夢とその解き明かしを聞くことによって解消するためであった。なお夢の中の大麦のパンは、貧農のイスラエルを指し、天幕は遊牧民のミディアンを指す。すでに敵はギデオンとの戦いに恐れを抱いていた。
ギデオンは、この偵察により勇気を得、300人の兵士を奮い立たせていく。角笛とたいまつに加え、壺が用意された。壺は、敵に近づくまでたいまつを隠し、近づいたところで打ち砕き、大きな音を立てるために用意された。また300人の兵士たちを三分した。真夜中の夜番が交代する頃、つまり午後10時に、ギデオンたちは、陣営の端に到着した。彼らは、角笛を吹き鳴らし、壺を打ち壊し、「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫び、宿営に乱入した。ミディアン連合軍は、突然の不意打ちに大混乱、同士打ちを始める。生き残った敵の大部分は、モレ山のふもとから、ヨルダン川沿いに南下して敗走し、ミディアン人はことごとく追撃された。神への完全な信頼と、神の御業による奇跡的な大勝利である。まさに、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」(1サムエル14:6)。神が私たちの味方になってくださるかが勝負である。恐怖におののいた心では戦うことはできない。たとえ勝ち目がない戦いであっても、主が勝利を約束されたものは、そのように導かれる。主に信頼し、主の勝利に与る者となろう。

士師記6章

士師6章 ギデオンの召し
<要約>
おはようございます。ギデオンが神の召しに立って、戦いに出ていく、その様子が語られます。そこで教えられるのは、やはり、神が、私たちをありのままに用いられるということでしょう。神は、私たちが背伸びまでして、神の業に与ることは期待していません。神の助けの中に生きることは、やはり神の豊かな恵みを味わうことに他ならないのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ミディアン人に苦しめられるイスラエル人
 イスラエル人は、再び主の目の前に悪を行った。そこで主は、イスラエル人をミディアン人の手に渡される。ミディアン人の名は、アブラハムの第二の妻ケトラの第四子に起源を発する。ミディアン人とイスラエルの歴史的なつながりは深い。たとえば、ヨセフは、ミディアン人の隊商に売られた。モーセは、ミディアンの祭司レウエルの娘チッポラと結婚をしている。イスラエルは、シティムに滞在中、ミディアン人によって偶像礼拝と不道徳に陥った。そして士師の時代、ミディアン人はアマレク人らと共に現れ、完全にイスラエルの敵となり、略奪した。彼らは、収穫期になると襲ってきて、八ヶ月の勤労の実を略奪し、イスラエルを悩ました。農耕と牧畜が不可能となったイスラエル人は、山地の洞窟や要害に息を潜めて住み着くようになった。
イスラエルが主の助けを呼び求めたのは、このように弱くされてからである。主は、無名の預言者を通して、イスラエルの背信の事実をまず指摘される。イスラエルは、単に神の存在を忘れていたのではなく、エジプトの奴隷の家から連れ上り、圧迫する者の手から助け出し、追い散らし、国を与えてくださった方を忘れていた。しかし主は、イスラエルの求めに答え、五番目の士師を起こしてくださった。
2.五番目の士師ギデオンのつぶやき
 しかしながら、五番目の士師ギデオンは、敵の攻撃を避けて、酒ぶねの中でこっそり麦を打つ臆病者であった。「勇士よ」と呼びかけられるに値しない存在である。またギデオンのことばは、私たちの率直な気持ちを代弁する。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。」私たちの心もそうつぶやく。イエスの十字架も復活も高挙も、私たちの新しい人生には何の効果も現わさない、と思わされることはないか。神が共におられるなら、なぜこのようにあまりにも惨めな状況に自分たちは置かれ続けているのか、聖書に書かれたことは皆嘘っぱちではないか、この世に希望はない、だからこうして災いを避けて酒ぶねに「閉じこもって」生きる以外にないのだ、というわけである。
3.ギデオンを召す神
しかし、そんなギデオンに語られた神のことばに注目しよう。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか」これから装備し、訓練し、あなたを勝てるようにしよう、というのではない。とにかく全力を尽くせ、と命じるのではない。「行け、あなたのその力で」と言う。自分が無であると思うなら、無のままで出て行けということであろう。自分が弱いと思っても、その弱さのままに出て行け、というわけだ。なぜならヨシュアにも神が語られたことであるが、敵と戦い、征服するのは主であるからだ。
だがギデオンは、躊躇し続ける。そして自分に勝ち目があることのしるしを求めている(17節)。そして一度のしるしでは満足できず、二度目のしるしを求めている(36節)。それは、不信仰の故であるというよりは、むしろ謙遜さの故である。ギデオンは自分の力を知り尽くしていた。神は、私たちの弱さを問題にはされない。しかし神が用いられるのは、この私でなくてもよいのである。けれども神があわれみにより、また恵みにより、敢えて私を召し出されるならば、この私は応えなくてはならない。ただ主の御業が現されるように、と。

士師記4章

士師記5章 デボラとバラクの歌
<要約>
おはようございます。聖書通読が習慣となり、面白くなるには、それなりの努力を必要とします。残念ながら聖書通読にも王道はないのです。ただ塵も積もれば山となる、ゆっくり一つ一つ積み重ねればよいのです。今日は神と良き時を過ごす中、イスラエル詩の特徴をも理解しておきましょう。こうした、イスラエル人の文学的特徴を理解すれば、それだけ聖書の世界も身近になります。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエル詩の特徴
 カナンの王に勝利したデボラとバラクの歌が綴られる。先に散文で語られたこと(4章)が詩文で繰り返されている。ちょうど出エジプト14章と15章の関係に似ている。
それにしてもここでは翻訳の難しさを思わされるところである。ヘブル詩には、「並行法」と呼ばれる修辞法がある。それは、日本の詩のように韻を踏む音の並行ではなく、フレーズに込められた思想を並行させる。ここでは二行詩、または三行詩による同義的並行法があり、一行目の内容が、二行目で再述され、段階的に強調される。また一行は、三拍子、または二拍子で綴られる。翻訳にこの拍子を反映させるのは実に難しい。
2.現わされた神の恵み
1-3節は、プロローグ。2節、新改訳第三版では、「イスラエルで髪の毛を乱すとき」と始まっていた。新改訳2017では、「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち」と改められている。本来、聖なる戦いに出るにあたり、兵士が髪を切らず、伸びた髪を解いて乱して出陣する習慣を物語っているが、わかりにくいので、直訳調ではなく、意味を取って訳した方がよいとなったのだろう。その時には、主への祈願の成就を思い賛美せよ、というわけである。
4,5節も懐古調である。何を祈ったのか、に続いて、どんな救いに与ったのかを思い出す。つまり、彼らは自分たちの救いの経験をシナイでの過去の解放の経験に結び付けている。6-8節も同じで、カナンに隷属するイスラエルのあわれな窮状を描く。「隊商は絶え、旅人は脇道を通った」というのは、交通網が破壊し、交易が不可能となり、旅する者たちは妨害を回避するために余り使われないわき道を使ったということである。カナン人の略奪行為によって農業も荒廃した。それは、「新しい神々が選ばれた」、つまりイスラエルが自分たちを導いたまことの神を捨てて、カナンの異教の神々を慕い求めた結果である。「四万人」は多くのを意味する象徴的な数字であろう。ともあれ勝ち目のない虐げられた人生の中にあって、希望のない民に、神は救いと勝利をもたらされたのである。
3.主の招きに応じる
9-18節は、諸部族が召集された様子を語っている。大切なのは主の民が、集められたことである。戦いのために、精鋭部隊が集められたのではない、神に忠誠を尽くす主の民が集められた。19-22節はその結果としての勝利を語る。イスラエルはこの勝利に、精鋭部隊も、最新装備も持ちえなかった。まさに神の介入によってキション川が敵を押し流し、一人の女の手によって敵将シセラが殺されたのである。
31節、最後の告白祈願は、後のダビデの詩68:1-3節を思い起こさせる。「神は立ち上がり、その敵は散り失せる。…悪しき者が、神の御前から滅び失せますように。しかし、正しい者たちは 小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ」繰り返しイスラエルの歴史の中で歌われてきたこの祈願が、後のダビデの賛美のヒントになったのかもしれない。イスラエルの民は常に、外敵と外圧にさらされ、その中で、いつも信仰を持って、主の民として戦うように召しだされていた。その召集に、信仰を持って応える民もあれば、そうでない民もいた。それは今日も同じである。主の招きがあり、それに応じることなくして、主に与えられる勝利を味わうこともない。主の招きに応じることがなければ、主の御業を見ることも、信仰それ自体も強くされることはない。主を愛し、主に応じて初めて闇が過ぎ去り、光が力強く差し出ることになる。今日も、その信仰のもとに神の召しを受け止めて行こう