ヨシュア記4章

ヨシュア記4章 十二の記念石
<要約>
新年あけましておめでとうございます。新しい年、まずこれまでの人生を振り返り、信仰によって主の手の強いことを示す歩みを思い起こしたいものです。私たちは、神の恵みを忘れやすいものですから、神が自分の人生にどのような偉大な業をなしてくださったかを覚え、記念とすべき証を大事にしたいものでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.永久の記念とする
 イスラエルの民がすべてヨルダン川を渡り終わった時、神はヨシュアに命じられている。乾いた川底から十二の石を取り、それを宿営地に据えて、永久の記念とするように、と。興味深いことに、ヨシュアはその命令に、「あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出し」応じている。すでにヨシュアは、神にその命を受けていたが、それがいつ実行すべきかについてはわかっていたわけではない。3章では、ただ、主が命じた、というので事前に12人を選ぶように勧めているだけである(3:9-13)。主は、ヨシュアとともにおられたというが、ヨシュアもまた神とともにあった。しっかり神に寄り添い、神の心を我が心として歩み、いつでも神の命を実行する状態にある指導者の姿がある。
さて、ヨルダン川の渡渉は、古い歩みへの決別であり、新しい第一歩の象徴である。ヨルダン川を境に、イスラエルの民は、もはや後戻りできない歩みへと入っていく。ノアの箱船が神によって閉ざされたように、ヨルダン川の水も元の場所に戻り、以前のように、川岸いっぱいに満ちて流れ、彼らはもはや引き返すことができなかった。私たちも神の招きに応じて踏み出す時に、決して逆戻りのできない新しい歩みへと入っていく。使徒パウロは、「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13,14)」と語ったが、神の召しに応じて、前へ前へと進んで行くことこそ求められることである。
ヨルダンの川底から持ち運ばれた石は、宿営地に据えられた。それは、神がヨシュアを通してご自身の御力を現されたことの永久に残るしるしであった。つまりそれは、単に現在の世代の経験というだけではなく、イスラエルの将来の者たちに対する証しであり、励ましとなるものであった。そういう意味では、私たちの教会の歩みもまた同じである。私たちの救いのしるしも、私たちの教会の発展の証も、皆、私たち自身の中で完結することではなく、子々孫々に語り伝えられるべきしるしなのである。
この出来事によって、モーセの後継者としてのヨシュアの権威は確立され、全イスラエルは、神がヨシュアを大いなる者にされたことを確認している。ヨシュアとともに神がおられることを覚えて、恐れた。しかしヨシュアが、神の命に従って用意した石は、ヨシュア自身ではなく、神の業に注目させる道具となった。イスラエルの民は、その石を指し示して、自分達の子孫に、神がヨルダン川の水をからし、乾いた地を渡らせた、その業を永久に語るように教えられたのである。かつての紅海渡渉のように、これは、「主の手の強いこと」を証し、主を恐れさせる(24節)信仰的な遺産となった。
私たちも、この石は何ですか?と子どもに聞かれ、それについて説明できるものが必要なのだろう。それは神が私をエジプトから連れ出し、後戻りのできない新しいカナンの地に導き入れてくださった、記念の石である。霊的な暗闇から光りの中に、肉に属することから御霊に属することをひたすら考える人生に導き入れてくださった記念の石であると語り、神の業と神の栄光を共に祈り、讃え、伝えていく、そんな石が必要である。
そういう意味で、教会は建たない、あるいは教会を建てることはできない、と言われたこの二子玉川の地に、教会が生まれ育っていることは、まさに神の恵みの業を証することに他ならない。確かに神は、私たちに働いて、ご自身の業を力強くなされるお方である。