ヨシュア記6章

ヨシュア記6章 エリコの攻略
<要約>
おはようございます。イスラエルが約束の地カナンでの最初の戦いが記録されます。彼らは大きなチャレンジを与えられましたが、そこにどんな勝ち目を予測できたことでしょう。勝利を得るとしたら、ただ召し出された神に寄りすがる以外に方法はなかった、と言えます。彼らにとっての信仰は、神に寄りすがることそのものでした。つまりそれは決して後になっても自分の誇りとすることのできない信仰です。謙虚にただ主を信頼する歩みを導かれたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エリコについて
 エリコは、古代からオアシスの町と呼ばれ、海面下250mと世界で最も低い所にある町である。死海の北西16キロほどの地点に位置している。
旧約時代のエリコは、現在のエリコの北西約2キロのところで、イエスの時代には既に廃墟となっていた。現在のテル・エス・スルタンにあるエリシャの泉として知られた泉(2列王2:19-22)の近くとされ、「棕櫚の町」と呼ばれていた。それはオアシスの町で、南北約四百メートル、北側の広い部分は幅200メートル、高さ12メートルの丘になっている。
この町の歴史は、その地層が示すとおりにヨシュアの時代よりも5000年古いとされ、18の文化層が発見されている。考古学的調査は、ドイツ人ゼリン(1904-9年)、英国人ジョン・ガースタング(1930-36年)、英国人カスリーン・ケニヨン女史(1952-56年)の三回にわたって行われている。ケニヨン女史は、エリコは世界最古の都市と言えることを証明したが、ヨシュアのエリコ攻略については何もわからないと結論づけている。最も興味のある発掘をしたのは、ガースタングで、エジプトのアメンホテプ3世(BC1400年代)の記銘のあるスカラブ(聖甲虫)が発見された層がヨシュアによって破壊されたものであると結論した。確かにその層での城壁は二重になっており、高さは10メートル、厚さは4メートルで、それらは倒壊し、また激しい火災の跡もあった。陶器の破片も約1,500枚発見されたことから、彼はヨシュアの攻撃をBC1400年としたのである。しかしケニヨン女史の調査によると、この層は、2500年頃のものでヨシュアとは関係がないとされている。
いずれにせよ、エリコは堅固な城壁で、明らかにこの城壁が象徴するように、武具を含め、あらゆる面で、エリコの人たちはイスラエルより遥かに条件のよい戦いをするはずであった。
2.ヨシュアの戦術
副将のヨシュアが率いる部隊は4万、総司令官である主の作戦に従って、エリコ攻略の戦いへと出陣する。だが主の作戦は、非常に奇妙であった。武装した戦士たち、7つの角笛(ヘブル語でショパーと呼ばれる牡羊の角で作られた角笛で、今日も聖祭日を告げるのに用いられている)を持った7人の祭司、主の契約の箱をかついだ祭司、しんがりの順で、6日間沈黙を守りながら町を回り、7日目には、7度町を回り、既に与えられた勝利を確信して、勝ちどきの声をあげる作戦である。
この作戦は第一に、私たちクリスチャンには、世の人々にはばかげて見えるかもしれないが、従うべく主の作戦があることを示している(イザヤ55:8、9)。今の私たちは、当時のように攻略目標を七度回ることはしないとしても、神の業を信じ、神の働きに与って勝利することを学ばなくてはならない。つまり、祈りによる勝利であるが、そのようなことを語ると、祈ってばかりでよいのか、信じるばかりでよいのか、と言われることがある。確かに、人が解決するに神の手を煩わせることもない問題もあるに違いない。しかし、人は、ただ神に寄りすがる以外に解決のない問題に直面することも多いではないか。たとえば、あなたに向けられた敵意も、あなた自身の内にある罪の城壁も、それは、ただ神に寄りすがる以外に解決はないだろう。ヨシュアが直面していた戦いも、チャレンジを与えられたのはよいものの、ただ神に寄りすがる以外に、解決の道はなかったのである。そして彼らは、ひたすら神に寄りすがった。そしてヨシュアとその部隊は、一発も銃火を交えることなく、エリコを攻略した。後の時代に聖書は、これを信仰による勝利であると証している(ヘブル11:30)。
3.過ちては改むるに憚ること勿れ
 カナンの地で最初に征服され、占領された町として、エリコは神にささげられた。エリコの住人は一人残らず聖絶された。理解し難い大虐殺のようにも思える。しかし、これはすでに創世記15章(16-21)に預言された、エモリ人の咎に対する裁きである。しかも彼らは、既に悔い改める機会を与えられていた(ヨシュア2:9-11)。そこで悔い改めたラハブとその家族は、聖絶から逃れ守られている。かつてイスラエルの敵ニネベの町が悔い改めた時に、ニネベの住人はその滅びから逃れたように、神は、決して無謀な裁きをなされるお方ではない。悔い改める者を神は拒まれない。そういう意味で、いつでも私たちは、自分の「過ちては改むるに憚ること勿れ」と心得たい。今日神のみこころにそぐわぬ思いがあるならば、その過ちを即座に改めたいものである。素直に自分の罪を神に告白し、捨て去り、神の側に立つ者であろう。信仰と従順にある者を主は祝される。