ヨシュア記8章

ヨシュア記8章 アイ攻略
<要約>
おはようございます。アイの敗北の後、再び主にチャレンジを与えられたイスラエルの軍が、主のみことばに判を押したように従い、勝利していきます。人生勝利の秘訣は、主への従順。主のみ言葉に生きることに他なりません。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アイ攻略の再チャレンジ
 アイの敗北の後、イスラエル人たちは、その敗北の原因が何であるかを理解した。それは、イスラエル人の慢心のためであり、またアカンという一人の人物の罪のためであった。しかし、人生に失敗はつきものと言うべきだろう。二歩前進三歩後退が私たちの現実である。そんな私たちの罪人の現実に、神が備えてくださっているのは、悔い改めの恵みである。神は悔い改める者にあわれみ深い、悔い改める者に、再度チャンスを与えられる。イスラエル人たちは、再びアイ攻略へと出ていくのである。
2.ヨシュアの戦略 
そこで副将のヨシュアが取った行動は、神の指令への徹底した服従であった。神はヨシュアに、作戦を告げ、ヨシュアは、ただそれに従っていく。判を押したように、神のことばを淡々と従っていくのである。伏兵を置くことも(2節)、伏兵を動かすタイミングも(18節)、全て、神が仰せられたとおりに行動するのである。
しかしその戦略、普通は、この程度のことであれば、何も、神の助言がなくても、神の手を煩わせなくても、人間が思慮深く考えればできること、と思うものだろう。それがどうして、神を引き合いに出すのか。そこが宗教の分からぬ所と思う人もいるのではないだろうか。日本の歴史においても、戦争に名をとどめた、神を信じない名将はいた。けれども、聖書が神の作戦を強調するのは、やはり、事の勝敗を決するのは神だ、という認識である。神は、世界を支配し、世界の時の流れをつかみ、これを自由自在に動かすのである。
3.事の勝敗を決するは神
詩篇には、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたが早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(127:1-2)とある。また、伝道者の書にもこう書かれているではないか。「競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。またパンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ」(9:11)人間の努力や能力、才覚でも判断力でもなく、神が時と機会を与えられ、人はその時と機会に乗じるのだ。
ヨシュアが勝利の後に、祭壇を築いたのは、そのことを心得ればこそである。「鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇」とある。「律法の書にしるされているとおり」に、人為的なものを何一つ加えない、神の備えられたものをそのまま用いていくところに、神の命令にことごとく従おうとする姿勢が表されている(申命記27:5,6)。ゲリジム山とエバル山に分かれ、祝福とのろいのことばを読み上げる様は、まさにモーセによって教えられたものを愚直に守っている姿である(申命記27)。神の御教えに生きるとはこういうことである。神のことばをよく食み、それを互いに語り聞かせあい、さらに互いに祝福とのろいを意識して、主のみ言葉に従いあっていく。それが主の共同体なのだろう。
今日、キリスト教信仰はあまりにも、個人的なものになっているかもしれない。教会への所属意識は薄れ、教会が大事にされないことがある。しかし、神と自分だけの世界で信仰生活を持てばいいという考えでは信仰は本当の意味で深まりを持つことはない。キリスト教信仰は、共同体的なもの、生活の中で互いにみことばを語り合うものだ。一人ではどうしても甘くなりがちが信仰のあり方に、互いに祝福とのろいの二つの道があることを語り合い、みことばへの従順を促し合うことも与えられた祝福である。神は私たちの信仰が進むために、兄弟姉妹を与えてくださったというべきだろう。そして、信仰を高め合い、神以外の何物も恐れてはならない、主と共に立つ、と深く心に留めたいところである。