ヨシュア記10章

ヨシュア記10章 ギブオンの救出
<要約>
おはようございます。ギブオンとの契約のために、イスラエルは余計な戦争を背負いこむ羽目になりました。彼らは一つの町ではなく、五つの町の連合軍と戦う大いなる脅威にさらされたというべきでしょう。しかし、そこに神の助けがあったことに注目すべきです。損になっても立てた誓いは変えない、恐れるべき方こそ恐れる、そこに私たちの救いもあります。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.損をすることを厭わない
 イスラエルは、ギブオンと盟約を結んだ。偽りの変装によって騙された形での、ある意味で不本意な盟約であった。しかしヨシュアは、これを撤回せず、ギブオンはイスラエルの中に安住することができるようになった。こうしてイスラエルの側に立ったギブオンは、その後、エルサレムの王に主導された、ヘブロン、ヤルムテ、ラキュシュ、エグロンの五つの山地の連合軍によって攻められることになる(4節)
この機会に乗じてイスラエルは、ギブオンが攻められ、滅ぶままにする選択肢もあった。自ら手を下すことなく、騙された形で結ばれた盟約を解消することもできた。しかし、ヨシュアはそのようにはしなかった。むしろ「ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った」(9節)と言う。割に合わない戦争を進んで買って出たのである。それは、ヨシュアが主に誓ったからであった。主の前に生きることはまさにそういうことだろう。しかも「イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった」(11節)とある。これもまた主の戦いなのである。ヨシュアの誠実さもさることながら、神がイスラエルとギブオンに味方してくださったが故に勝利した戦いなのである。
ダビデの詩に「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」という問いがある。その答えの中に「主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない」(15:4)というものがある。実にギブオンが守られたのは、イスラエルの神を恐れればこそであったし、また、割に合わないとしても、夜を徹して出撃したのは、たとえ損になっても立てた誓いは変えないという主に生きる信条の故であった。
そういう意味で、クリスチャンの人生はたとえ損な役回りであっても守るべきものは守るものである。イエスご自身がそうであったように、損をすることを厭わない人生である。
2.神が戦われる
さて、「日よ、ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で」(12節)とヨシュアは言った。東では太陽がギブオンの上で、西では月がアヤロンの谷で留まれ、という意味で、いわゆる早朝であったのだろう。伝統的には、戦いが終わるまで、太陽と月がそのまま動かず、ギルガルからギブオンまでの夜通しの行軍、その距離約35キロ(当時の大人がおおよそ一日で歩く距離)を神が守られた、と理解する。また、日食を懇願したと考える説もある。空が暗くなることで、敵に恐れがもたらされた、というのだ。しかし暗闇の中での戦いは難しい。さらに、月と太陽が同時に見えるというのは、古代において悪い前兆が起こると考えられたので、心理的な圧迫効果を求めたのだ、とする説がある。しかし、「民がその敵に復讐するまで」という時間的な要素がこれでは意味をなさない。結局、どの解釈も満足を与えないのであるが、ヨシュアにとって有利な、状況が続くように、まさにイスラエルの神がイスラエルのために戦われることを願ったことは確かである。「主が人の声を聞き入れられたこのような日は、先にも後にもなかった」(14節)今回限りという意味ではない。モーセもエリヤも主に聞いてもらっている。主がヨシュアの祈りを十分聞いてくださったということである。
その後の、進撃、マケダ、アゼカ、リブナ、ラキシュ、エグロン、デビルと占領地を追っていくと、これはかなり広範囲にわたる。最後のまとめ、「カデシュ・バルネアからガザ」までという表現は、当時12部族に分割された、ユダおよびシメオンの領域全土、つまり、死海の北端から南端の西側全域(パレスチナ南部)を指す。神がイスラエルに代わって戦ったが故に、それは一挙に素早く征服されている。ギルガルの守りから全てに渡って神の奇蹟による占領であった。神がイスラエルのために戦われたのである。神の業が、私たちの人生にも現されることを願うこととしよう。