士師記14章

士師記14章 サムソンの結婚
<要約>
おはようございます。成人したサムソンは、ナジル人として、神の側で仕えることを期待されながら、実際には、神のみこころにかなうような者ではありませんでした。サムソンは明らかに神の期待とは全く逆の方向へと人生を進んで行くのです。しかし、神はそんなサムソンを心の内に留め、その人生を導き続けられるのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.釣り合わぬくびき
テイムナはかつてダン部族に割り当てられた土地であったが、サムソンの時代にはペリシテ人の町となっていた。サムソンは、その町で、異邦人の女性を愛し、結婚しようとする。しかし、これは神がイスラエル人に禁じていたことである(申命7:3,4)。ましてサムソンはナジル人であったが、両親の反対を押し切って結婚してしまう。
 これをどう考えたらよいのだろうか。実際現代においても未信者との結婚によって、教会が悩み、傷むことがあるだろう。確かに、それは、熟慮すべき重要な事柄である。日本人は結婚に際して宗教の違いをあまり問題にしない。しかし、宗教は、価値観、生き方の問題であるから、結婚してから一番大きな衝突の原因となりやすい。毎週日曜日に目に見えない神に礼拝することを求める者と、せっかくの日曜日には目に見える家族との時間を楽しもうとする者が結婚するのである。目に見えない神を畏れることや十字架愛の精神に生きることを求める者と、宗教はどれも同じで、キリスト教だけが宗教ではないとする者が結婚する。死後天の御国の希望があるという者と、死んでしまえば全ては終わりとする者が結婚する。しかも結婚は、当人同士を越えて親族を巻き込む。結果的にそれほど遅くない時期に、価値観のずれた共同生活で信仰に生きる喜びを維持することがいかに難しいかを味わうようになる。聖書は、平安で健やかな人生を生き抜く知恵を予め示している、と言えるのではないか。
2.主によること
ところで4節は、著者の注釈であるが、神がサムソンと異邦人との結婚をみこころとした、と読めもするが、それを普遍的真理として読むことはできない。むしろここで言っているのは、神はサムソンの愚かさや頑なさを通しても、ご自身の御旨を行われることである。実際、「主は」と訳された語は、原文では代名詞であり、口語訳では、「サムソン」ととり「サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである」と訳されている。
大切なのは、生き方のベクトルが違う人と結婚してしまい、後で、それが失敗だったと思わされた時にどうするかである。しかし、それは、神のみこころに積極的にかなうものではないとしても、神のみこころに覚えられていることなのだ、と心得たい。神は、みこころにかなわない歩みをしてしまったサムソンを見捨てられたわけではない。心に留めておられた。そしてサムソンと共にいることに変わりはなかった。しばしば日本の教会では、未信者の人と結婚をしてしまった人は、教会にはもう行けなくなるような雰囲気があって、教会から離れてしまうことがある。しかし、離れる必要はない。教会は神の家族であり、家族の縁はそう簡単に切れるものではない。家族に躓きはつきものであるし、人生が難しく複雑になればなるほどに、その人の人生を支えるのは教会の礼拝をおいて他にはないことがわかってくるからである。だからいよいよ教会生活や礼拝を大事にして、自身の生活に「主の霊が激しく下り」神の業が現れるように祈ることが大事になるのだ。
人には思慮が足りず、失敗し、自分の人生に大きな×印をつけたくなることがあるだろう。しかし神はそのような人生をも忘れてはおられない。むしろ、神は、共に歩み、その人生の先を導いてくださる。神が私たちを愛しておられることに変わりはない。神の祝福を積極的に選び取る歩みを今日も導いていただくこととしよう。