士師記16章

士師記16章 サムソンとデリラ
<要約>
おはようございます。サムソンを初め、士師記を読むと、キリスト者であるということは、ピューリタンのように清潔な雲の上の人生を生きることとは違うものを感じさせられます。彼らは、罪人であるままに、必死に神に寄りすがる人々です。その姿に、励まされもし、できそこないのこんな自分でも神を呼び求めてよいのだ、という思いに立たされます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.サムソンの怪力とその秘密
サムソンは、ペリシテ人の最南端の町ガザに現れた。おそらく、欲望の赴くままに、そこにいる遊女たちを尋ねようとしたのだろう。既にサムソンの評判は、ガザにまで広がっており、ペリシテ人は彼を捕縛しようと狙っていた。しかしサムソンはその真夜中に、町の門のとびらと二本の門柱をかんぬきごと引き抜いて出ていくのである。古代の町の門は木造建築ではあったが、攻撃されても燃えないように金属で覆われていた。一人で引き抜いて61キロも離れた山の頂に運べるようなしろものではない。尋常ならぬ怪力を印象づけるエピソードである。恐らく町の人々もその様を目の当たりにし、脅威に誰も手を出すどころではなかったのだろう。しかしその怪力は全て神の霊の力によるものであり、サムソン自身によるものではなかった。だからサムソンが神に背き、神がサムソンから離れると、サムソンはただの人になってしまう。また、この物語で注目すべきことは、サムソンが神に背き、無力にさせられても、神の御前に悔い改め、助けを求めた時に、神がこれをあわれんで赦され、再び力を与えられた点である。神は憐れみ深い。
2.サムソンとデリラ
サムソンはペリシテ人の女性デリラを愛するようになった。ソロモン王が、多くの外国の女を愛し、堕落していったように(1列王11:1-13)、サムソンも神を敬わない異邦人の女性と戯れる内に、自らの滅びを刈り取っていく。しかもサムソンに対する計略は、五人の領主によるもので、ペリシテの国家存亡をかけたものであった。
デリラは、まさに娼婦に徹して、サムソンの力の秘密を聞き出そうとした。それは、(1)彼女が本来男よりも金を愛する者だった、あるいは(2)三度の裏切りに、所詮自分が遊ばれている女であると、一層自尊心を傷つけられた、ためなのかもしれない。しかし、サムソンは真にこの女性を愛したのだろう、もはや、その意図すら読み取れなくなっていた。執拗に食い下がるデリラに、サムソンはついに自分の力の秘密がナジル人の誓願にあることを明かしてしまう。興味深いことは、ナジル人の誓願の内、彼が守ったのは髪の毛を剃らないことだけであった。彼はしばしば死体に触れ、強い酒も手にした。主要規定の三つを完全に守っていたわけではなく、ある意味で、皮一枚でつながっているような、不完全な守り方をしていただけである。それは、中途半端な皮一枚でつながるような信仰生活をしていて、自らをクリスチャンであると思っている状況によく似ている。本来は神の前に全き献身が求められるのだが、そうではない現実がある。だが神のあわれみは深い。
弱くなったサムソンは、ペリシテ人に捕獲され、牢にぶち込まれ、臼を引かされた。この時代、ろばの力で引く大臼は存在しておらず、おそらくそれは手で動かす臼であったとされる。この臼を使ってとうもろこしを挽くのは女性の仕事であった。怪力サムソンは、女子ども程度の力に弱められてしまい、屈辱を与えられたのである。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください」(28節)神あっての自分であることを思い知らされたサムソンは、絶望的な思いの中で、やはり神に呼ばわらざるを得なかった。ただ、彼の最後の祈りは復讐を求めるものであって、崇高なものではない。しかし、神はそのような祈りにすら応えられている。神は決して私たちの心をないがしろにされない。
中途半端に従い、最後も自己中心な願いをささげる、いわばどうしようもない罪人をも見捨てられず、あわれんでくださる神の愛の深さがある。イエスは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たという。サムソンの物語の中に、本来受けるに値しない者が希望に与る、不合理な神の愛が、語り尽くされている。罪人の心の願いを聞いてくださる神がおられる事を覚えて、歩ませていただこう。