2サムエル記12章

12章 ダビデの悔い改め
<要約>
おはようございます。世は矛盾に満ち、神の共同体の中にもそれは紛れ込むことはあるものでしょう。しかし、神の正義は決して揺るがず、神の律法も決して変えられることはありません。人間にとって最大の喜びと希望は、神の正義が、真昼の太陽のように輝くことです。もし人生に不条理なことが起こったら放っておき、神のなさることを見ていくことです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の前に立つダビデ
ダビデはナタンに罪を指摘され、悔い改めへと導かれていく。ナタンは、最初からダビデにとてつもない罪を犯したという言い方はしなかった。しかしこれは、当時の田舎の裁判でよくあるやり方で、まず判例を述べるという方法があったようだ。判例から始めて本件に入るという流れである。そしてこの方法は、裁判の無駄な時間を省いて、ストレートにダビデ自身に罪を認めさせることになった。いきなりダビデは、神の前の被告席に立たされていく。ダビデは告白した「私は主の前に罪ある者です」と。裁判は決した。
先に述べたように、この挿入的物語の意図は、神の正義を語ることにある。世の横暴がなされ、神の民の共同体の中にすら横暴が忍び込み、公然と不正が行われることがある。信仰を卒業したくなる思いになるのはそのような時だろう。しかし、それは神が悪いのではなく、人間の罪の問題である。神は決して、不正を行わない。だから、13節以降、神は、ダビデにあわれみを示すが、神の律法が守られるべきことを、明確にされるのである。神の正義は、決して踏みにじられることはない。不本意なことがあっても、それが決してそのままにされることはない。そこに、人の希望はあるのであり、信仰は卒業するようなものでもない。
2.神に願うダビデ
ウリヤの妻が産んだ子どもは、神に打たれて病気になった。ダビデは、神の前に悔い改め、神のあわれみを求めた。しかし、それは、ダビデの罪の赦しのための尊い犠牲でもあったのだろう、子どもは死んだ。ダビデは、もしかすると「主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない」と期待したが、神の律法は、お手盛りを許さなかった。ダビデは、神に執拗に寄りすがったが、この場合、神の正義が腐りきった神の共同体に示されなくてはならなかった。
彼は、自分のやったことが人間としてまったく正しくない、ということをこうして認めざるをえなかった。だから、そのような自分を認めて、けじめをつけていくことになる。確かに人間が罪過ちを犯すことは避けられない。しかし聖書が教える本当の人間らしさは、そこで「私は罪を犯しました」と自分の罪を潔く認めて、主の正しさと神の律法の不変さを認めることである。そうすれば、「主もまた、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない」と驚くべき主の判決が下される。
ダビデはこの人生の転換点にあって詩篇32篇を書いている。「私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。すると、あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました」罪を犯した後の罪責感から、開放され、神との交わりを回復した恵みをダビデは謡っている。罪を犯したことをうやむやにするのでもなく、罪を犯したと落ち込んで、自分の人生はだめだとやぶれかぶれになるのでもなく、そこで本当に個人を取り扱われる神に出会うことである。主の罪の赦しの恵みに与ることである。主の前に立ち、愛の宣告を受けることである。それなくして先へ進むことはできない。
ただ同時にダビデは、詩篇51篇を書き、祈っている。「どうか私の咎を全く洗い去り」(詩篇51:2)私の心を漂白してくださいという祈りである。「私の罪から、私をきよめてください」(51:2)皮膚病が癒されるように、荒れすさんで痛んだ心を新しくしてくださいという意味である。「私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください」(51:9)」。罪を帳消しにしてくださいという意味である。人間は罪赦され、神との交わりを回復したと言え、その心は、日々刻々と主に繋がり続けなければ、元の木阿弥である。だから、私たちの心が新しくされるために神の力を祈り求める。また新しい人生が導かれるように神の助けを祈り求める。これがダビデのしたことである。
確かに世間では色々と失敗をすればなかなか敗者復活をなしとげることは難しい。後ろ指を指し、新しい歩みを妨げる無慈悲な者も起こるだろう。社会は、やすやすと人を赦しはしないものである。そして罪を犯した人自身も、なかなか自分自身を赦すことができない。その人は自分の弱さに、打ちのめされ続けるのである。しかし、神が正しいとしたものを、いつまでも曲げることはできない。罪悪の淵からでさえ、人生をやり直すことができる、それは、神の義を示すことでもある。だから聖書が人間のすべきこととして教えていることは、自分の力で自分の人生を回復させることではない。続けて神の力を求めることである。神のいやしを求めることだ。主が真実で正しい方であることを認めて、その正義がなされることを求めることだ。
3.アンモン人との戦いの結末
 ダビデの悔い改めを祝福するかのように、アンモン人との戦いの結末が記録される。11章、12章は、ワンセットになっている物語として読むことができる。この戦いは、ダビデにとっては苦しい戦いになるはずであった。しかし神は悔い改めたダビデに勝利を与えてくださった。またアンモンの王権をダビデに授けた。こんな男に、どうしてここまで、と思わされるところでもある。しかし、人間は、100%正しいわけでもなく、100%悪人でもない。自分自身を見るにつけてもそう思わされるところだろう。神が自分の弱さにも同じようにあわれみの深さを示してくださると、理解すべきところではないだろうか。自分の弱さをはっきり認め、主に告白し、癒される歩みをさせていただこう。

2サムエル記11章

11章 ダビデの犯した罪
<要約>
おはようございます。ちょうど、5時になると、四十雀が一斉に囀り出す、そんな季節になりましたね。日々一刻と、知らずに夜の開ける時間が早まっていく、宇宙の動きを感じます。偉大な神の御手に守られて、今日も一日あることを覚えるところです。矛盾だらけの世の中の動きと別に、刻々と動いている神の動きがあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.罪人ダビデ
「年が改まり、王たちが出陣するころ」つまり、厳しい冬が過ぎ、戦闘が開始されるに都合のよい時期になったころ、ダビデはどうやらエルサレムに残って他の国々の王のように「暇つぶし」をしていたようである。2節「歩いていると」は、当てもなく言ったり来たりすることを意味する同志である。夕暮れ時に起き上がったダビデは、見晴らしのよい屋上に上がり、ぶらぶらしているうちに一人の美しい女を見つけた。原文には「見るに」とあり、見つけて凝視した様がわかる。ダビデはその女の素性を調べさせ、夫がいる女性であることを十分承知しながら、宮殿に召し抱え、一夜を共にするのである。
これまでよく耳にすることは、ダビデが栄光の頂点にあった時に罪を犯した、というものだろう。しかし、文脈的には、ダビデがハヌンに遣いを出す前の出来事であった可能性がある。つまり11章のアンモン人との戦争は、ハヌンの出来事(10:1-5)を契機としており、ヨアブは、「年が改まって」出陣したのであり(11:1)、それによってダビデ王国は、ヨルダン北東方面に大きく拡大したのであり(10:6-19)、その拡大前に事件が起こった(11:2-27)、というわけである。彼は、やることがなくて暇つぶしをしていたわけではなかったのだ。
ともあれ女性は身ごもった。ダビデは秘密を守るために、彼女の夫を戦死と見せかけ殺すように謀っていく。全くの悪人である。かつて詩篇63篇を歌い神とともにある幸せを歌ったダビデその人とは別人のようである。しかしこれが罪人の現実なのだろう。100%の悪人もいなければ100%の善人もいない。純粋で美しい心もあるが、汚くおぞましい心も併せ持っている。ダビデはある日突然ワルになったわけではない。ダビデは神を求める人でありながら、本質的にそのような弱さがあった、ということだ。聖書は、ダビデがウリヤに質問をしながら、ウリヤの答えを記録していない。鋭い人であれば、ダビデがウリヤの答えに興味がなかった、殺伐とした心を持った人間を描いていることを感ぜずにはいられないのである。契約の民ではないヒッタイト人ウリヤの誠実さが、契約の民であるダビデの心の問題を浮き彫りにしている。クリスチャンになる人ならない人に、本質的な差があるわけではない。
ただ、誠実なウリヤが、その忠誠心の故に命を落としたことは、実に世の矛盾として残念なことである。しかも、将軍ヨアブも、ずるがしこくダビデの共犯となり、神の契約の民の中に公然と悪が行われていく。これは、荒野の40年のイスラエルの民のつぶやきや反逆とは全く性質が異なっている。実に痛ましい、悲しい状況が起こりうるのが人の世というべきなのだろう。ふざけるな、神も何もわからぬ、と信仰を卒業したくなる思いに駆られるのは、こんな時だろう。
2.罪人を赦す神
だが「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」この一文が、聖書の関心の置き所を示している。本来ダビデの輝かしい業績の中に挿入されたこの事件の記録は、聖人の闇を暴露するものでも、客観的な歴史的な記録を残しているのでもなく、人間に対する神の関わりを物語ろうとしていることを示している。罪人に対する神の取り扱いが、聖書の中心主題なのである
だから、ダビデは、ウリヤの死に際して、「このことに心を痛めるな~あなたは彼を力づけなさい」(25節)、と事の真相を知らない人が聞いたら、実に感涙する懐の深い善良な王のようなことを言っている。しかしダビデのそのような裏の闇を語ることが中心ではない。むしろ聖書は、あわれみ深い神が、このダビデと将軍ヨアブの共謀、そして深まる闇の動きを、どのように取り扱っていくのかを語ろうとしている。
そこでその中心となる12章に入る前に、もう一つ考えるべきことは、ダビデはサウルに追われていた時には、サウルを殺すチャンスがあっても、自分は人の命をあやめるなど神の前に間違ったことはできない、と実に立派な態度をとっていたのであるが、ウリヤの妻バテシェバの時にはそうではなかった点である。人間は、苦しみや痛みを持っていたほうが人間として真実な歩みができるのではないか、人間というのは慢心しやすいものだからむしろ積極的に痛みを負って生きていった方がよいのではないか、と思わされるところだ。パウロは言う。「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:7-10)。
痛みを負ってこそ人間らしく生きるところがある。そのような意味で、色々と得にもならないことをして、むしろ損をしたり、痛みを負ったりすることの方がよい仕事ができる、人間らしい歩みができることがあるだろう。人間は慢心し易い者である。最良の予防策は、痛みを負っていくことにある。それはパウロ的に言えば、キリストの力を現すために、神様が与えてくださったとげを受け入れることだ。痛みがあることで、謙虚にさせられていることを大事にしたいものである。ますます神に拠り頼み、人間として日々、正しい歩みを踏みしめていくことができるように祈ることとしよう。

2サムエル記10章

10章 アンモンとアラムとの戦い
<要約>
おはようございます。今日の箇所では、ダビデに起こったアンモンの挑戦が、さらにダビデの王国を強化し、強くしていく機会となることを見ていきます。大切なのは、神が計画の通りに物事を導いていかれることであり、そのために多くの試練を私たちは通らされることもある、ということでしょう。常に主に信頼し、前に進みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.イスラエルとアンモン
善意は必ずしも善意として受け止められるわけではない。人は様々な受け止め方をする。人の心は複雑なものだ。ゆえなく関係が壊れていくことがある。それは人間が罪人であるが故の、やっかいな問題である。アンモン人の新しい王に、ダビデが善意から使節を派遣した。なぜアンモン人なのか。1サムエル記11章に、アンモン人とイスラエルの接触が描かれている。そこで、アンモン人は、ヤベシュ・ギルアデの人々を冷酷に扱い攻め滅ぼそうとしていた。その危機を救ったのが先王のサウルである。その後ダビデは、彼らの王ナハシュと友好関係を築き上げるのに成功したが、統治者が交代したので友好関係を継続する意図があったのだろう。実際、彼らの首都ラバは、現在のヨルダンの首都アンマンであり、エルサレムからはわずか80キロに過ぎない。すでにアンモン人は、イスラエルの支配下にあったが、ダビデは、不要な衝突が起こることを予め避け、中東における共存共栄をはかろうと考えたと思われる。
ところが、アンモン人の王ナハシュの子ハヌンは、家臣たちの助言に耳を傾け、父の友好政策を翻して、ダビデの使者たちを侮辱した。またハヌンはダビデの憎しみをかったと見るや否や近隣の王に呼びかけ、戦闘態勢を整えた。これは事実上の宣戦布告である。ツォバは、アラム(シリヤ)人の町で、ハマテとダマスコの間にあった。サウル王の死後、ツォバの王ハダデ・エゼルは勢力回復をはかったので、ダビデはこれを撃ち、多量の青銅などを奪い取っている(2サムエル8:3)。だから彼らにとっても、これは一つの復讐の機会であった。「マアカ」は、その南側に位置し、北はヘルモン山、西は上部ヨルダン川、南はゲシュルに接するアラムの小国である。「トブ」は、さらにその南側に位置し、北側はアンモンに接するアラムの町である。もともと彼らは、今日のヨルダンにあるラバを首都としていたからエルサレムとの距離は近い。そのエルサレムを北側から攻め入るように布陣した。
2.イスラエルの勝利と中東での覇権
この戦いが、イスラエルにとっては、五分五分、決して容易な戦いではなかったことは、ヨアブの立ち振る舞いからも理解できる。ヨアブは、兄弟アビシャイと戦略を練り、互いに協力しあうことを確認している。また、ヨアブは言った「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が、御目にかなうことをされるのだ」(12節)かつてダビデが、絶体絶命を感じながら奮い立ったように、ヨアブもまた奮い立っている。しかしその結果については、神にゆだねている点が興味深い。勝利を求めて祈るのではない。あくまでも、主が御心に適うことをなされるようにと祈るのである。決定は神の御手にある。そこに、ヨアブの信仰を見ることができる。
果たして、この戦争は、イスラエルにとって非常に重要な結果をもたらした。イスラエルはアラムの同盟軍を打ち破り、アラム人のみならず彼らのすべての同盟国家を従えることになった。つまり、イスラエルは、東と北の強力なアラム諸国家を従属させ、エジプトとアラビヤ・シリヤの地とを結ぶ主要交易路の支配権を確保したことを意味している。イスラエルは中東における政治的覇権と経済的利権を手中にした。中東における勢力均衡の地図が塗り替えられ、イスラエルを中心とする覇権秩序が確立される。ダビデの最盛期が訪れたということだ。
3.神の約束の偉大さ
神がダビデに約束された祝福はダビデが想像する以上のことであった。ダビデは、自分のみならず、イスラエルが世界の中でそのように高められていくとは決して考えもしなかったであろう。しかしそれは、すでにアブラハムやその子孫たちに歴史的に約束されていたことである。だがかつてアブラハムが、神に「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから」(創世13:14-17)。と語った時に、この状況を想像し得たであろうか。
今日、私たちにもイエス・キリストを通して約束されていることがある。それは実に大いなることである。神は私たち一人一人に、大いなる計画をもっておられる。大切なのは常に神の約束に立ち、神の約束が実現する時を待ち望みながら、神が与えられる訓練の時を過ごすことである。また神が与えられた機会において奮い立つことであろう。与えられた機会は掴まなければならない。私たちは訓練を受けるべき時に訓練を避け、奮い立って戦いに出るべき時に、引いてしまう。しかし神が約束されたことは必ず実現するのであり、神が共におられることが、勝利を予測させるものなのだから、神と共に、機をとらえてチャレンジしていくことだろう。常に、信仰によって進む勇気を持ちたいものである。

2サムエル記9章

9章 メフィボシェテに施された恵み
<要約>
おはようございます。今日はサウルの子孫メフィボシェテが、ヨナタンとダビデの約束の故に、憐れみを受けた箇所を読んでいきます。これは実に、私たちと神との関係のひな形となるものです。神はイエスとの契約の故に、私たちに憐れみを施すのです。この事実をしっかりと受け止めて、神に大いに期待し、信頼し、神と共に歩ませていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ヨナタンとの約束を守るダビデ
王としての地位が確立した後、ダビデは、ヨナタンとの約束を思い起こした(1サムエル20:15)。そして、ヨナタンの子孫に真実を尽くそうと考えた。彼は、都合よく、ヨナタンとの約束を忘れてもよかったが、ヨナタンあってこその今であることを忘れない男であった。そして、ヨナタンのためにできることを考えたのである。
ダビデは、ヨナタンの子、メフィボシェテを王宮に召し入れた。彼は、5歳の時に父ヨナタンと祖父サウル王の戦死の悲報に触れた。乳母が、彼を抱えて逃げだそうとしたところ、うっかり落として、そのために両足が不自由になってしまったのである。乳母が恐怖で慌てたのも無理はない。メフィボシェテは、本来サウル王とヨナタンの死後、王になるべき存在であった。だからダビデが権力を握ったら、メフィボシェテがどんな仕打ちを受けるかは、予測されることであった。だから慌てふためいて逃げ出した、というのはよく理解できることである。
そんなメフィボシェテは、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家にいた。ロ・デバルはヨルダン川の東側ギルアデ地方のこと、実際には、ガリラヤ湖南岸に近いデビルであったとされる。マキルは、その地に住んでいた人物であり、サウル家の生き残りの王子に住まいを提供していた。彼は後に、ダビデがアブシャロムに追われて苦境に立たされた時にも、援助した人物として出てくるのであるが、メフィボシェテは、その奇特な人物に匿われていた。ひっそりとエルサレムの王宮から遠く離れて暮らす彼が、ダビデに呼び出された時の思いはどんなであっただろうか。ダビデの腹の内をあれこれ考え、恐れを抱く思いであったことだろう。しかしダビデは恵みを施そうと考えていた。
2.ヨナタンの功績によるメフィボシェテの幸せ
この物語は一つの霊的な教訓を語り伝える。というのも、誰でも、神が自分を召しておられることに気づくなら、誰でも神を恐れざるを得ない。自分の人生を振り返り、自分が神に与えられた賜物を無駄にし、あらゆる浪費を重ね、さらには神に敵対的になり「神は死んだ」と神の墓を建てあげあるかのように、反抗的に生きてきていることを思わされる時に、人は神が祝福の神であると語り聞かされても、実際にはその事実をなかなか受け入れられるものではないからである。人は、自分の現実を思う時に、神が自分を祝福してくださるとは素直に信頼することができない。しかし、ダビデがメフィボシェテに「恐れることはない。私はあなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」と語ったように、神もイエスにあって、私たちに語りかける。「恐れることはない。私はイエス・キリストの十字架のために、あなたに恵みを施したい。あなたが所有すべきものをあなたに返そう。あなたはいつも私と親しくすることができる」事実ヨハネは言っている。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)
神は、善でありあわれみ深い、と神に信頼して一歩を踏み出すならば、私たちの人生は全く違うものとなるはずである。つまり、自分が死んだ犬のようなものであることを感じながら、うつむいて生きていくのか。それとも、確かに自分は死んだ犬のようであるとしても、そのような自分に対して神が恵みを施そうとしてくださっている、と信頼して前に進んで行くのか、そこには大きな違いがある。どんな人生であっても投げ出してはいけない。
3.メフィボシェテの恵み
メフィボシェテがダビデの招きを受け入れた時に、彼は、ダビデの子として扱われ、王の食卓で食事をするようになった。それまでは陰でひっそり暮らす者であったが、彼は、本来次ぐべき祖父の地所を回復した。ダビデはサウルの地所を自分のものとしていたがそれを、メフィボシェテに返したのである。そして王族としての地位を回復することになった。しかも、抜け目のないサウルのしもべツィバは、彼のために働くことを命じられるのである。
メフィボシェテは足が不自由なままであったが、ダビデの召しに応じた後の人生はまったく異なるものであった。そして彼は思ったはずである。自分がこのような恵みを受けるのは、自分のためではない。まったくもって父ヨナタンの故であると。同じように、もし、神の召しに応じ、神の祝福の歩みを感じることができるとするならば、それは、自分のためではなく、ましてあの人のためでもない。全くもってイエス・キリストのためである。イエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架にかかり、神の怒りのすべてを受け止め、よみにまで下ってくださったが故に、私たちからは、神の怒りと滅びは取り去られているのである。今、神は私たちに恵みを施そうと、向かいあっておられる。もし自分が神の恵みにふさわしくないと思うのであればあるほど、神の恵みに招かれていることを疑わずに、素直に受け入れていきたいものである。神は私たちに恵みを施される。

2サムエル記8章

本日フィリピンから帰国しました。インターネット接続が難しく、更新が滞り大変申し訳ありませんでした。また明日からよろしくお願いいたします。

8章 ダビデの勝利
<要約>
おはようございます。ダビデが王となり、周辺諸国を統一していく、活躍が描かれています。ダビデの長い、試練の時は終わりを告げ、新しいチャレンジの時が与えられたのです。しかし、ダビデは、その素晴らしい信仰の故にその長き試練を耐えたというよりは、ただ神に委ねる他ない時を過ごした、というのが本当なのでしょう。無力さの中に、ただ神に寄りすがる、等身大の信仰を学ばせられるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダビデの征服
 ダビデの勝利が語られる。再び、5章で中断した征服の物語が取り上げられている。ダビデの王国が確立されるや、ダビデは、敵対勢力に対する総攻撃をかけていく。地名を見ていくと、それは約束の地を完全に制覇していくものである。ペリシテ人は、地中海沿岸の西側(1節)、モアブ人は死海の東側(2節)、アラムは北方の民族(6節)、エドム人は死海の南と東側に住む民族(14節)である。
なお、ダビデはかつてモアブの保護を受けたことがあった。モアブ人ルツを通してモアブとの関係があった。しかしここでは、ダビデは征服した者の三分の二を殺し、残ったものを奴隷として扱い、貢物を納めさせたとある。なぜこのような冷酷な扱いをしたのか、理由はわからない。ともあれ、ダビデは、イスラエルの周囲東西南北全地域に住む強敵に対して勝利を得た。これは、一つの政治的な業績と考えることができる。また彼は有能な政治家である。ダマスコのアラムやエドムに守備隊を置き、継続的な支配を実現した。「正しいさばきを行った」(15節)とあるように、民の問題解決に関わった。サウルについて、そのような記述は示されていない。そういう意味では、ようやくイスラエルの民は、自分たちが求める王を抱いたことにもなるのだろう。さらに軍団長、参議、書記を任命し、いわゆる王政国家に必須とされる官僚組織と軍隊を整備している。彼はいわゆる有能な王なのである。だが、聖書はこうした成果の全てを主に帰していることに注意すべきだ。
2.主に委ねるダビデ
ところでこうした勝利に至るまでのダビデの生涯は、何と過酷なものであったことだろうか。羊飼いから王に抜擢されたのも束の間、先王サウルの妬みのために、翻弄される人生に迷い込み、気が狂ったふりをせねばならぬところまで落ち込み、さらに不本意に敵の保護を受ける、なんともやるせない人生であった。人間にとって先が見通せないほど、苦しいことはない。このままいったら自分はどうなるのであろうか、と自分の存在が危ぶまれるような状況において、なおもその試練の中で、真っすぐに生きていくことは実に難しい。大方は試練に負け、感情に流され、自分をダメにしてしまうものではないか。王位への道を完全に断たれるのみならず、死の荒野に放り出されたダビデが、何故、ここまで、粘り強く神の訓練を受け続けることができたのだろうかとも思うが、実際には、ただひたすら神に頼り続ける他なかった、つまり、神に望みをおかずして、生き延びることができなかったのが現実なのかもしれない。耐え抜いたダビデは偉いというよりは、死ぬこともできない臆病者であり、ただ神に賭ける以外にない状況であった、ということだ。
私たちにも、そのように自分を賤しめ、ただ惰性で生きる他ない状況に置かれることがあるかもしれない。そんな時に、私たちにできることは、完全に諦めるか、それとも、神にゆだねる形で諦めるか、いずれかの選択である。私は、何の希望もないと思うことがあるならば、「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」(詩篇2:8)と語る神に求めゆだねる形で、自分の人生を諦めていったら、よいのではないかと思う。それはただ人生を投げ打つこととは違う。神への深い信頼のもと、神のご計画に委ねることである。これは、メシヤ預言の一つであるが、その詩篇を詠んだダビデにも、あてはまる言葉であった。そして、神の約束には、二重の意味があり、メシヤにおいて成就する事柄と、私たちにも普遍化できるものとがある。
神はこんな私の現状に何をしてくださるのか、わからなくても神の働きにゆだねていく。そして神を待ち続けるのである。待つことも信仰である。神は正しいお方である。神がダビデにしてくださったことは、私たちにも起こりうることである。王位を回復させ、東西南北、あらゆる敵を打ち倒したダビデの勝利を、私たちのものとすべく、今日も、神に私たちの人生をゆだねてみよう。主よ、あなたに私の重荷をゆだねます。主が最善をなしてくださいます、と祈りつつ、今日のなすべき務めを淡々と果たさせていただこう。