1サムエル記17章

17章 ゴリヤテとダビデ
<要約>
おはようございます。聖書の物語の中で最も有名な箇所と言えるゴリヤテとダビデの戦い、それは、本質的に勇気を教えるのみならず、信仰を教える物語です。主に信頼する者に対する主の勝利があることを教えるものです。主の助けを覚えて歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ゴリヤテのエピソード
このエピソードは、日本で言えば、金太郎や桃太郎に匹敵する、読み聞かせのストーリーとなるものであった。つまり、日本の子どもたちが金太郎や桃太郎の話を聞きながら勇敢な子供に育っていくことを期待されるように、イスラエルの子どもたちも皆この物語を通じて、大切な心的態度を養われていくのである。ただこの物語には日本人の昔話にはなく、日本人の家庭では決して教えられない要素がある。「イスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ」(45節)という、万軍の主への信頼と、「主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ」(47節)という神による勝利という考え方である。自分が強くなって、その力で相手を打ち負かすのではない。むしろ、私たちには力はないが、神の加勢によって勝つという考え方である。
2.サウルの対応
ゴリヤテは巨人である。身長は6キュビト半、つまり2.7メートル以上もあった。その身長でどれだけ機敏な動きができたのかは疑問であるが、さらに青銅で、5000シェケル(約57キログラム)のよろいを身に着けていた。ゴリヤテは一騎打ちを望んだ。それはおそらく、誰よりも肩から上だけ背の高かったサウルに対する挑戦だったのだろう。しかし、サウルは、応じなかった。彼に先陣を切る勇気はなかった。もはや情けないことにサウルは、いかに地位を維持するかに腐心するだけの指導者に成り下がっていた。
3.ダビデの応答
そこにダビデが現れた。勇敢で勇ましいが、兄たちの面目を潰す、いささか「うざい」ところのある存在のようでもある。彼は空気を読まずに突然現れて、サウルの歓心を買い、サウルに認められている。しかし、先に16章において、ダビデはサウルに立琴弾きとして、また道具持ちとして召し抱えられている。なのに、サウルがダビデを知らなかったかのように描かれているのは、どういうわけか。サウルが戦争に時間を奪われダビデの立琴を必要としなくなっている間に、ダビデも成長し、一見それと気づきにくい状態が生じたのか、あるいは、サムエル記を書いた著者が、ここに戦記物の資料から一つのエピソードを無理やり挿入したために起こった矛盾なのか。注解書を読んでもこの点はよくわからない。
ともあれ、ダビデはイスラエルの神を侮辱するペリシテ人に怒りを燃やしている。彼らは生ける神について何も知らない、それがダビデの確信であった。しかしダビデは、こんな確信をどこで身に着けたのだろう。彼の時代には、ダビデとゴリヤテの物語はなかった。ただ「主が剣や槍を使わずに救う」(47節)という言葉は、ヨシュア記24章のメッセージを思い浮かばせる。ヨシュアは、主のことばを代弁し、カナンの地を征服したのは「あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった(12節)」主の助けによるものである、こと強調している。つまり、初代教会の人々にとって聖書とは、旧約聖書であったように、ダビデの時代の人々にとって聖書は、モーセ五書とヨシュア記であったことは一考に値する。改めて信仰の基本であり中核がどこで教えられているかを思わされるところである。彼らは律法の書に幼い頃から親しんできたと言えるのだろう。
圧倒的に勝利に見込みのない状況であれ、主が共におられるのであれば、普段使い慣れた石投げと一つの石、つまりありのままの力で勝つことができる。かつて神はギデオンに「あなたのその力で行け」(6:14)と命じられたが、私たちに勝ち目のない戦を強いられることがあっても、そこで落胆することがあってはならない。主のみこころならば、主が道を開いてくださるからである。確かに、完璧に練られ十分な勝算を見込んだ計画も水の泡と化すことはよくあることだ。最も力有る者もその力を発揮できないことがある。勝利を与えてくださるのは主であることを忘れてはならないのである。