1サムエル記21章

21章 ダビデの逃避行
<要約>
おはようございます。今日も聖書を読んでまいりましょう。最近シジュウカラの鳴き声が、春らしさを感じさせていますね。いつの間にか、時は先に進んでいる、そんなことを覚えます。ダビデの試練も、遅々とした時間の流れの中で進みつつも、確実に、それは終わり新しい時を迎えようとしていた、と見るべきなのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.アヒメレクを訪ねるダビデ
 ダビデは、アヒメレクを訪ねている。アヒメレクは、サムエルの後任としてサウルに協力するようになったアヒヤの兄弟である。アヒメレクも多少のことは聞いていたことだろう。実際、宮廷から持参すべき糧食と警護もなしにやってきたダビデに、アヒメレクは戸惑いを隠せずにいた(2節)。ただダビデは、サムエルやヨナタンに対するのと違って、もはや仲裁を求めてはいない。その腹積もりは決まっていたのだろう。ダビデは生き延びようとしていた。食料と武器を求めている。
アヒメレクは、警戒しているが、ダビデに求められるまま、本来祭司が食すべき、祭壇から取り下げたばかりのパンを差し出すのである。後にイエスは、この事件をとりあげている(マタイ12:3-7)。儀式律法よりも憐れみを優先させたアヒメレクを肯定し、弟子たちが安息日にはしてはならない、とされる麦の穂を摘んで食べたことへの批判に答えている。それは、イエスの偉大な教えであるが、イエスもこの箇所を読み記憶していたことを心に留めるべきだろう。
2.エドム人ドエグ  
それにしても、ダビデは惨めである。非常に無様な姿をさらけだしている。そんなダビデに、神はもっと優しくあってもよいのではと疑問を感じさせられるのが7節、ドエグというエドム人が「主の前に引き止められていた」ということばである。サウルはエドムと戦いこれを征服している(1サムエル14:47)。ドエグは、その後で召し抱えられた、サウルに恩義のあるつわものだったのだろう。そんな人物が、そこにたまたま居合わせたのではなく、「主の前に引き止められていた」とある。なぜ主は、わざわざ後にダビデに胸騒ぎを(1サムエル22:22)起こさせ、かつダビデにあわれみの心を示す者を殺すような人物を引き止めておいたのだろうか。ダビデの逃避行に神が手を貸そうとする気配すらない。実に、神のみこころは理解しがたい。だが、それが神のみこころ、というよりは、すべてが主の支配の中で起こっている、程度に理解すべきことなのだろう。
3.ダビデの逃避行
一方ダビデは、主の支配の中にあることを忘れたのであろうか、自らを守ろうと、ゴリヤテの剣を握り、大胆不敵にもガテの王アキシュの保護を求めた。だが、その顛末は実に哀れである。ダビデはあまりにも知られすぎていた。アキシュの家来たちは、ダビデを「あの国の王」と呼んだのである。そこでダビデは、自分の身を守るために気が狂ったふりをしなくてはならなかった。気が狂った者を、宮廷に召し抱えることはないだろう。けれども、ダビデはこの時、本当に気が狂ってしまいたいぐらいに思っていたのではあるまいか。彼の心はどん底に落ちていた。まさに死の影の谷を歩む状況であって、イエスもダビデのこの心の内に、思いをはせたことは間違いない。
 まこと神を信じ、キリスト者になったのに、なぜこんなにも試練の多い人生なのか、と言う人はいる。神を信じているのに、なぜ自分の人生はかくも複雑になってしまったのか、とどん底のどん底を歩ませられることがあるかもしれない。そして絶望のふちに投げ込まれ、もはや神の約束を疑うこともあるだろう。しかし、イエス・キリストご自身、まさに、このどん底を通らされて、自分を神の善意に全く委ねる他のないところを味わい、ダビデの心を感じる思いであったであろうことは疑うまでもない。大切なのは、キリスト者の人生にも、そのような時は襲い来るのである。そして神までもが敵対しているように思われる時が、ある。そんな時にどうしたらよいのか。
後にダビデはこの時の心境を詩篇34篇に綴っている。その表題は、「アビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい、彼に追われて去った時」とあり、アキシュではないが、おそらく同一人物であろうと考えられている。ダビデは詠んでいる「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出してくださる」(18,19節)打ち砕かれてぼろぼろの状況の中で、ダビデは神の臨在に触れることを学んでいる。叫ぶと聞いてくださる主を悟っている。ダビデはアキシュに保護を求めて、失敗した、と思ったことだろう。そこで苦肉の策で、気が狂ったふりをした。だがそれで殺されずに済んだ。ただ生きながらえたことも、自分の戦略勝ちというよりも、神のあわれみによる、というべきものであった。本来ならば「もはやこれまで」というところを、すり抜けさせていただいている。神は劇的な助けを与えようとはしない。しかし、なぜか知らないがぎりぎりのところをすり抜けさせてくださっている。となれば命ある限り希望はあると思うべきだろう。それは、心もとない歩みかもしれないが、後に悟られるように、確かに勝利に近づいている道でもあるのだ。粘る信仰をもって歩ませていただこう。