1サムエル記22章

22章 長となったダビデ

<要約>
おはようございます。ダビデの逃避行が始まります。しかし、ダビデは一人ではありませんでした。ダビデに組する者たちが集まり始めるのです。それは一見何の役にも立たない人たちのようでした。しかし彼らは、ダビデと共に、神の御旨を行う集団として成長していくのです。大切なのは、たとえ、はた目からろくでなしの集団であると見られようとも、どこに彼らが何を共有しているか、という問題です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダビデの仲間
 ダビデの人生に転機が訪れた。もはやダビデは、一人ではなかった。ダビデはユダのアドラムに避難したが、同じように身の危険を感じた家族、そして、彼を頼る者たちが彼のもとに集まってきた。「困窮している者」「抑圧されている者」「負債のある者」「不満のある者」つまり集まってきた者たちは、変革を求める者たちであり、ダビデは彼らの長となっていく。
 この時期にダビデが書いた詩編は、34、57、142篇の三つであるとされる。ダビデは謡う。「ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って私のいのちを気にかける人もいないのです。【主】よ私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所生ける者の地での私の受ける分。」(詩編142:4,5)ダビデは、人間的なものにもはや望みを置きようがなかった。ただひたすら神に自分の望みを置いた。ちょうど、アブラハムやヤコブが神にのみ望みを置いたように、ダビデもアブラハムの子としての歩みを通らされているのである。
 困窮している者は、サウル王の統治下にあって、これではやっていけないという者たちだろう。そういう者たちがダビデの保護を求めてやってきた。しかも、考えてみれば、ダビデ自身、食べるものもなく、祭司に取り下げられたパンを求めるほどに困窮していた(21:6)。だから困窮していた者というのは、ただ貧しい者が集まってきたというのではない。むしろ、貧しさの中にあって、神により頼んでいるダビデの姿勢に感じ、まことの神に頼る信仰を持った者たちが集まってきたのである。負債のある者も同じである。負債から逃れる道を主に叫ぶダビデに見いだした者たちである。また不満のある者、失望し、挫折し、心の落ち着きを失った者たちも、自分の力を頼みとするサウルから逃れ、むしろ、神のみことばに立つダビデにこそ、自分たちの人生の活路を見いだそうとした者たちであった。
だからダビデは言う。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。【主】を恐れることを教えよう」(詩編34:11)。つまりダビデは、自分のもとに集まる者たちに、神を恐れることをまず教えていく。そして言う「苦しむ者が叫ぶと【主】は聞かれそのすべての苦難から救い出してくださる。【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。」(詩編34:17,18)。ダビデは、信仰を持って神に助けを求める者の長となっていくのである。
2.ダビデを匿った代償
 一方、サウルは「ギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていた。」(6節)サウルの粛清が始まった。サウルは競争相手のことで頭がいっぱいで、不従順なものを一人残らず摘発しようとしていた。そして彼の仲間に加えられたのは、神を敬わないエドム人ドエグであった。またサウルに忠実に具申する祭司アヒメレクは、反抗的な存在とみなされていく。アヒメレクは弁解も許されずに、サウルの敵を助け、ダビデの動向を報告する義務を怠ったと非難され、家族諸共に死刑を宣告されている。
主にあって王となり、主の霊を経験した王が、今や主のしもべたちを虐殺する者となっていく。こうして祭司の一族は、女、子ども、そして家畜に至るまで殺められた。かつてサウルは、もの惜しさの故にアマレク人に対する聖絶を躊躇ったが、今回は何の容赦もなかった。サウルにとってもはや、主の祭司は「つまらない、値打ちのないもの」だったのだろう(1サムエル15:9)。
人生の荒れ地にあって、あなたは今どこに立とうとしているだろうか。神を信頼する群れと共に立とうとしているのか。むしろ、あなたに畑やぶどう畑を与え、千人隊の長、百人隊の長にすることのできる(7節)実際的な権力であっても、いずれ滅びるはずの権力と共に立とうとしているのか。信仰の群れにこそ加えられる者でありたい。