1サムエル記26章

26章 復讐から解放されたダビデ
<要約>
おはようございます。心の持ちようとは言いますが、信仰者にとって、試練にあって、いかに、災いを災いと思わずに、希望をもって前進し続けるかが課題です。いや、そうできるのが信仰者なのでしょう。ダビデの主に信頼した心の切り替えに教えられて行きたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.確信に満ちたダビデ
23章とよく似たエピソードである。しかし、ダビデのサウルに対する姿勢は、より積極的で、信仰の成長が見られるのがこの章であろう。サウルは3000人の精鋭を引き連れていたが、ダビデの部隊は相変わらず600人であった。神に王位を退けられたというのに、サウルの勢いは衰えるところがなかった。ここが、私たちの迷うところではないだろうか。なぜ、神はすぐに裁きの鉄槌を下さらないのか。なぜ神は悪をのさばるままにされるのか。結果、悪者は益々勢いづいていく中で、正しい者が生きづらい思いを余儀なくされることがある。
しかし、ダビデはいじけてもおらず、うじうじしてもいない。そして引っ込んでおらず、言う。「【主】は生きておられる。【主】は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、【主】に油そそがれた方に手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」再びダビデは、槍一突きでサウルを殺すことが出来る状況を自ら作りながら、サウルを殺すことに何の関心も示さない。ナバルの教訓に学んだのだろう。ダビデは、「【主】は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださる」ことを確信していたのである。ダビデの心は、神にゆだねられていた。
この時のダビデの確信は詩篇57篇に語られている。そこにはこうある。「私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。」敵がどんなものであるかを知りながら、その敵に対する恐れを克服している。というのも神の恵みは大きく、天にまで及び、神のまことは雲にまで及ぶことを彼は、体感していたのである。そのように神を信頼していくなら、なぜ人を恐れる必要があろうか。サウルの激しい憎しみにさらされながら、依然として3000人の精鋭に潰される危険にありながら、「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。セラ神は恵みとまことを送られるのです。」(詩篇57:2-3)と祈ることができるのである。信仰の危機の恵みは、まさにこうした神への信頼の深みに導かれることにある。神に心がゆだねられている時に、私たちは決して、目先の恐怖に翻弄されることはない。それは、神の臨在の恵みである。
3. サウルの応答
いのちを助けられたサウルは、ダビデに「帰ってくるように」と語る。サウルは「本当に私は愚かなことをして、たいへんな間違いを犯した」と自分の誤りを明言した。しかし、ダビデはそのことばに応じない。サウルの和解の素振りは信用に値しないということだったのだろう。ダビデはサウルのもとに帰るのではなく、そこで主と共に立つことを決意していく。ダビデの心は、主への信頼を明確にして言う「主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます」。主こそが、守り救ってくださるお方である。
ただ、この後サウルはナバルのように卒倒することもなく、ダビデも逃亡生活から解放されるわけでもなかった。サウルは王宮へ戻り、ダビデは相変わらず放浪生活を続けた。しかしそれでも、神の約束に信頼することで恐れを克服したダビデの心は、霊的に大きな前進を遂げている。問題の渦中にありながら、なおも胸を張って前進するダビデがいる。
これはダビデのみの経験ではない。だれもが、神の御国に入る前に、通らねばならぬ道ではないだろうか。神にゆだねることを学ぶ、神にゆだね、何者にも保護を求めず、神の約束にのみ信頼して立ちゆく訓練である。一見見かけの環境は何も変わることがないように見えながらも、心の姿勢を変え、いかなる危機的状況をも、平安のうちに受け止め、淡々と物事に処す、そんな時を過ごすのである。それは試練の時であるが、主の支えを経験する時でもある。今日も日々刻々、主の助けをいただくよう願い歩ませていただこう。