2サムエル記20章

20章 将軍ヨアブの脅威
 <要約>
おはようございます。ダビデの人生の混迷の果てが描かれています。しかし、聖書は文脈を大事にして読まなければ、表層的に、教訓的に読んでしまい、終わってしまいます。少し、巨視的な目を持って、一つ一つのエピソードをつなげて読んでいきたいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.将軍ヨアブ
ソロモンの後、イスラエルは、北と南に分裂していくが、実際その兆しは、ダビデの時代にすでに見られていたことである。ダビデが身内のユダ族を特別扱いにしたことが、結局は、イスラエル国内のユダ族と北のイスラエル諸部族との間に対立を引き起こし深めることになった。
 北の不満分子の指導者に自ら躍り出た「ビクリの子シェバ」は、イスラエルの独立を宣言していく。ダビデは、シェバ討伐のために、アマサを起用した。しかし、アマサは、約束の期限に間に合わせて参集することができなかった。そこでダビデはアビシャイに再度命令を出した。ヨアブは相変わらず、ダビデの戦列から外されたままである。しかし、老獪なヨアブは、アマサを殺し、さらに、アビシャイを制し、ダビデの与り知らぬところで、ダビデの全軍を掌握していくのである。ヨアブは、知恵のある女の協力を得て、シェバの首を得、実質的にイスラエル全軍の長となり、ダビデの下へと戻っていった(22節)。
 ダビデはこの男をどのような思いで迎えたことであろう。ダビデの思いは語られていない。しかし、ダビデは自分が命令したアビシャイに代わって、ビクリの子シェバの首を携えてきたヨアブを迎えた。ヨアブは、ことごとく自分の命令に背き、アブネルを殺し(2サムエル3:27)、アブシャロムを殺し(2サムエル18:14)、さらにアマサまで殺めていた(2サムエル20:10)。そして、ダビデが認めた軍団の長を出し抜いて、いまや全軍を掌握している。ダビデは、新たな脅威に身震いする思いであったのではあるまいか。実際、ダビデは後に、ソロモンに「彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない」(1列王2:6)と命じている。ヨアブがダビデを助け、王国を救ったのに間違いはなく感謝する他なかったが、ダビデの軍隊を指揮する将軍は、ダビデの命令に全く服従する者ではなかったのである。ヨアブは、ダビデを知り尽くしていた。
2.2サムエル10-20章の意義
私たちの人生に起こるすべての出来事は機会となる。人はその機会に様々な形で乗じていく。シェバは、部族的な対立にあって、自ら昇進する機会を得た。シェバはベニヤミン人であり、彼はサウルの友と、ダビデの敵から広く指示を得られることになった。しかしその機会は、三日天下で終わってしまうものであった。アマサは、ダビデに起用され、ダビデの軍団の長として勝利を得る機会を得た。しかし、アマサは、ぐずぐずし、その機会を逃すのみならず、彼の失脚を狙っていたヨアブに殺されてしまう。ある意味で、人間的には何の機会も与えられなかったにも関わらず、最も器用に立ち回り、最も自の思いを達成する機会を自ら作り出したのはヨアブである。ヨアブは、自らの地位を取り戻し、イスラエルの全軍を自らの指揮下に置いた。しかしながら、こうしたどろどろとした人間模様の中で、一人の知恵ある女がまた自ら機会を作り出している。彼女は、自分の町の平和を維持し、救う機会を得た。こうしてみると、チャンスと言うべきものはチャンスではなく、ピンチであってもチャンスになりうる。
そのような意味では、ダビデの生涯は、チャンスを生かし、ピンチをもチャンスにし続けた生涯であったが、チャンスを台無しにし11-20章の汚点を残した生涯でもあった。上昇志向的に考えるなら、全ての機会は生かしたい、自らピンチもチャンスに変えていきたいと思うところだろう。しかし、人間の人生は本質的にそのようなものではないことを私たちは知らなければならない。
多くの注解書は、2サムエル記11-20章は、おそらく、ダビデが最も抹殺したい過去として扱う。そして、21章以降と区別する。しかし、21章も私は続きであると思う。つまり王位継承、イスラエルの分裂の問題は続いている。サウルの物語が突如出てくるが、それは、シェバの反逆の続き、つまりイスラエル独立の芽を摘み取ろうとした物語として読むべきではないか、と思うところがある。つまりダビデの王としての権威は、それほど深いダメージを受けていたということである。
だから、23-26節の王国の役人の名簿は、2サムエル8:15-18の初期の王国の役人の名簿と比較して読むと興味深い。裁判官の中にダビデはもはや名前が記載されていない。ダビデの息子たちももはや祭司ではない。さらに、役務長官という新しい部署が設立され、いわゆる官僚制が整えられている。ある意味で、王は実務に携わらないお飾りになっている。
そして続く、22、23章の歌、ここまでが一区切りであり、チャンスを生かしきれなかった人(シェバ、アマサ)、チャンス無きにもかかわらず、自らチャンスを作り出した人(ヨアブ、知恵ある女)、チャンスを生かし、ピンチもチャンスに変えてきた生涯でありながら混迷の結末を迎える人(ダビデ)を読みつつ、最終的に人生において何が重要であるかの結論がそこにある、と理解したいところではないか。
11-20章は、本来の王の年代記であればそれらは決して収録されえない出来事である。しかし聖書がそれをあえて収録することで、現代の読者が感じることは、ダビデは、王として復帰することはできたが国の統治力を維持することはできなかった、それはヨアブに掌握された、ということである。しかしそれが単に教訓的なメッセージにならず、霊的なメッセージとして語りかけてくるのは、22,23章のつながりがあるからだろう。明日、明後日そこは読み進んで行くことになるが、聖書全体は、私たちの生活に深くかかわるメッセージを語りかけている。それは単に何が有益で何をすべきか、という地上的な営みについてのメッセージではなく、本質的に、神と人がどうあるべきかを語るものなのである。地上的な営みを超えた、人生観を持つ者でありたい。