2サムエル記22章

22章 ダビデの歌
<要約>
おはようございます。ダビデの生涯をまとめるような、感謝の歌が収録されています。これは、詩篇18篇と同じものであり、ダビデの王としての人生の出発点に書かれたものですが、それが後半のがたがたの人生を踏まえた締めくくりとして書かれていることの意義を考えさせられるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.感謝の歌の意義
 この感謝の歌は、ほぼ詩篇18篇に収録されているものと同じと考えてよい。時期的には、ギルボア山における戦いの直後、つまりダビデが王となっていった時に作られたものなのだろう(1サムエル31)。宣言(2-4節)、証言(5-7節)、回想(8-31節)、報告(32-46節)、誓約(47-50節)、賛美(51節)という流れで構成されている。
ただ、どうしてここで、彼の出発点に戻る、感謝の歌が取り上げられるのか。大きな流れとしては、11章以降、21章まで、ある意味でダビデの組織的犯罪というべきもの、さらには、王位継承にまつわるごたごたが描かれていた。それらを踏まえて最終的な結論としてこれが加えられていることは、熟慮を要するものである。
というのもダビデほど、神にチャンスを与えられそれを生かし、さらにピンチをチャンスにした男もいない。人生には、チャンスを生かしきれない人間、ピンチにまさにピンチで終わってしまう人間も多いものだ。ただダビデの後半の人生は、ピンチをチャンスに生かしてはいるが、がたがたの人生であることは明らかで、かろうじて王としての体面を保ちながら生きていた、と言ってもよいものである。彼は人の羨むような人生を生きた部分もあるが、内実はそうではなかったとも言えるのだ。そして人間の人生というのはそのようなものだろう。幸せに見える人生であってもどこか不幸を背負っているものである。そのような中で、何が本当の幸せなのか、と言えば、結局世俗的な利得や業績を達成することではなく、また100%幸福感を達成することでもなく、ただ、神を知っていること、神に愛されていることを覚えながら生きること、つまり神との関係を持っていることにある、それが、ダビデの生涯を綴る著者の結論であった、ということなのだろう。この22章が、ダビデがサウルに代わってようやく王となった1サムエル31章の後でも、あるいはダビデがチャンスを生かし続けて上り調子の人生を歩んでいく2サムエル10章の後でもなく、11-21章の体面を保つだけのがたがたの人生の後に、納められていることの意義は大きい。
2.神の実在、神の助け
表題であるが、「すべての敵の手」とあり、サウルだけを念頭に置いているわけではない。ダビデは自分の生涯に、神の御手が力強く働き、神があらゆる敵から自分を解放し、助け出してくださったことを歌っている。そこで最初に、神はまったく信頼に足る、岩のような方であることが宣言される(2-4節)。事実、神は、自分の声を聞き、その叫びを聞いてくださったのである(5-7節)。そしてダビデの回想が続く(8-31節)。大切な点は、神が私たちの祈りに動いてくださる、ことだろう。
私たちを取り巻く困難は、しばしば自分の力では対処しえないことがある。困難の中にうずくまる以外にないときがある。ダビデは言う。「死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた」比喩的な表現ではあるが、ダビデは、もはや自分の力では抗うことのできない濁流に巻き込まれていた。しかし、そこに神の助けの手が差し伸べられる。「主は、天を押し曲げて降りて来られた」(10節)。私たちが濁流に飲み込まれそうな中で、「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられ」(17節)る、という。
神は私たちを驚くべき方法で救い出されることがある。私たちを圧倒し、私たちの力を遥かに超えた困難と危機から、私たちを救い出される。歴史に介入し、私たちの人生に介入される神を私たちは知らねばならない。
私たちの人生はしばしば困難を極めるように思われることがあるだろう。今日一日、生き延びることができた。しかしもうこれで限界である。これ以上進めそうもない。惰性で生きているだけだ、と思うこともあるかもしれない。そんな状況に置かれながら、ダビデと同じような感謝の歌を歌えるのだろうか、と思うこともある。しかし、押しつぶされるような苦難の中にあって、介入される神の素晴らしさを学んでいく必要がある。主は、私の義にしたがって私に報い、ということを教えられていく必要があるのだ。神は「悩む民を救われる」(28節)お方である。「主のみことばは純粋」(31節)このことばに使われた動詞は貴金属が「火の試練に耐える」様を意味する。神の約束は火で試されても、いよいよ真実である、ということなのだろう。
3.信仰告白
回想に基づいて、ダビデの信仰告白がまとめられる(32-36節)。神は、私たちの岩であり、私たちを強め、私たちを訓練されるお方である。神は私たちが恥じ入るようなことはされない。むしろ救いだし、助け出されるお方である。ほむべきかな主、主は生きておられる、と。この確信は、後のすべての神の民のものである。パウロも50節を引用して、「異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになる」(ローマ15:9)と。
ダビデがこのような幸いに与ったのは、神の憐れみの故である。「主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた」(21-24節)とダビデは歌ったが、それは、罪なき完全を意味するのではない。ダビデはまぎれもない罪人である。実際パウロは、ローマ書4章において、神に義と認められる人の例を二人あげているが、アブラハムを善人の例として、ダビデを悪人の例として取り上げている。アブラハムと違ってダビデは、姦淫と殺人の罪を犯した人物であり、ダビデはまさに神の一方的なあわれみと恵みによって、赦されている。彼が義と認められたのは、正しい心の故というのではなくて、正しい心の態度の故である。正しい心の態度の故に、憐れみを注ぎ、助けを与えてくださる神がいる。この神の善に信頼して歩ませていただきたいものである。