1列王記8章

1列王記8章 神殿奉献
<要約>
おはようございます。ソロモンの神殿奉献式が描かれます。大事な点は、ソロモンが神をどのように理解していたか、どのような関係の中で、祈りをささげていたか、という点でしょう。神は霊的な存在であり、超越した永遠のお方、しかし、人間と契約を結びそれを忠実に果たし、愛をもって、私たちを導かれるお方です。教会はそのような神が私たちと向かい合う、礼拝の行われる場です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神殿の完成
ソロモンによって神殿の奉献式が行われる。時はエタニムの月、「水のあふれる月」という意味で、カナン暦の月の古い呼び名である。イスラエルの宗教暦に直すと第7の月となり、政治暦では第1月、つまり正月にあたり、新年祭、贖罪の日、仮庵の祭などが行われた。太陽暦では9~10月に当る。
北東の風が吹き、先の雨が降り始めて、堅い地に湿気を与え、軟らかくする、つまり、耕作および種蒔きが始まる季節である。ちょうど、日本の季節感覚からすれば、3月か4月、田植えが始まり、これから新米の収穫を目指して動き出す、雨乞いの祭りもなされるそんな時期に、神殿は完成し、奉献式が行われた。
2.神殿に臨在される神
10節、主の栄光が主の宮に満ちたとされる。ソロモンは、「私は、あなたの御住いである家を、確かに建てました。御座がとこしえに据えられる場所を。」(13節)と語るように、神殿は、後にイエスが語るように、「父の家」(ヨハネ2:16)であり、祈りの家であった。ソロモンも、そこで、神と向かい会うことへの意義を感じていた。
もちろん、「神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(27節)とソロモンが語るように、神は地上の物質的な宮に押し込められるような存在ではない。もし、天地万物をお造りになった神が実在するならば、その神を、木や石の像に仕立てることはもちろんのこと、その神を住まわせる宮を造ることも愚かである。神は、有限な人間とは違う。ソロモンは、神を正しくとらえており、その神は、霊的な超越した存在であり、永遠かつ偏在の存在である。そして恵みをもって契約を忠実に守り、成就する、信頼に値するお方である(23、24節)。
2.ソロモンの祈り
だから、その神に向かってソロモンは祈っている。「けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが「わたしの名をそこに置く」とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください」(29節)と。
ソロモンにとって、神の宮は、神が御目を開き、私たちの祈りに耳を傾け、私たちと向かい会ってくださるところである。また神はそこで「聞いて赦し」(30節)、「悪を下し、義を報い」(32節)、「帰らせ」(34節)、「雨を降らせ」(36節)、「かなえ」(39、42節)、「言い分を聞き入れ」(45節)、「願いを聞き入れ」(52節)てくださる。つまり、神の宮は、神が私たちの祈りに応じられる場なのである。
今の教会も同じである。教会では、神が私たちに罪の赦しを宣言し、私たちの魂に安らぎを与え、願いをかなえ、言い分を聞き入れてくださる。私たちはいつでもどこでも祈ることができる。神は遍在のお方なのだから、自分の部屋でも、台所でも、祈られる祈りにはすべて耳を傾けてくださるだろう。しかし、教会では確実に神が耳を傾けてくださっていることを確信してよい。教会は、そういう意味では、霊的な用のために特別に聖別された恵みの場なのである。
だから教会は、神の祝福について、期待を持って集える場である。あなたを祝福してくださるのは、牧師でもあの兄弟でもあの姉妹でもなく、まさに神ご自身なのだ、ということを私たちは、ここで体験的に知ることができる。礼拝に行かなければならないではなくて、礼拝に行けば、神の祝福がある。だから礼拝へ共に集おう、というわけなのだ。神殿に集まった民は、「すべての恵みを喜び、心楽しく彼らの天幕へ帰って行った」(66節)と言う。私たちの心の中に、礼拝の場である教会に対して、どのような期待が育っているのだろうか。まだまだ教会は単なる建物に過ぎないのか。あるいは、あの人がいて、この人がいて、と地上的なお付き合いの場なのか。否、教会は、神がおられる所で、私たちと向かい合い、祝される場所であるという理解でいるのか。礼拝を後にする心の在り様は、その理解にかかっている。