列王記11章

11章 ソロモンの堕落と王国の解体

<要約>

おはようございます。ソロモンの治世の締めくくりというべき章です。ソロモンは神に豊かに知恵を与えられ、偉大な業績を残しながら、これを全て備えてくださった神に栄誉を帰さない歩みをした。だが、ダビデに免じて、彼の栄光は取り去られなかった、という結末です。これは、型というべきでしょう。私たちはキリストに免じて、罪赦され、神の栄誉に与る幸いを与えられています。その自覚のもとに、ソロモンのようにではなく、ダビデのように、日々、謙虚に、主に従う歩みこそ大事にしたいものです。それでは、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ソロモンの過ち

ソロモンは、700人の王妃と300人のそばめがいた、という。それは、同時代の王に比べれば、まだ少ない方であったとも言われる。しかしながら、聖書の神は、そのような結婚を認めていたわけではない。むしろ、あらかじめ外国人との雑婚を戒めていた(2節)。そこに他の神々へ心を転じさせる罠があるからだ。

ソロモンは、まさにその罠に陥り、彼女たちを愛して、離れなかったという。ソロモンは神に知恵を与えられたが、やはり、与えられるものは、日々得ていくものである。日々、神と向かい合い、切に求めずにして、人生を真に生きる知恵は与え続けられないのだ。

ソロモンの物語を読みながら多くの人は、ソロモンは、知恵を与えられた人ではなく、知恵者と考えてしまう。そして、自分も知恵者になりたいと願う。人は、上から知恵を与えられると、いつの間にか、自分が与えられた知恵で生きているのではなくて、自分の知恵で生きていると考えてしまう。そして、もはや知恵を与えてくださる方を求めなくなってしまう。ソロモンも同じ普通の人間だったと言うべきだろう。ソロモンは「力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4:23)と語っているが、それは、彼の反省から出たものなのか、それともまだ謙遜な時代に心からそう思ったことなのかはわからない。いずれにせよ、与えられるものは、絶えず求めていかなければならず、神の戒めをないがしろにすれば、その報いは受けることになるのである。

2.国王への戒め

神は、すでに国王たる者にこう定められている。「その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。」(申命17:18,19)朝毎に聖書を読み続ける、それは一つのことであって、もう一つ大切にされるべきことは、「そこに記されたすべてのことばと、これらの掟を守り行う」ことにある。

王朝の存続は、その指導権を与えられる神に対する霊的な応答にかかっていた。彼は神より知恵を与えられ、確かに巨額な富を得、豊かな建築、軍備、行政を実現することができたが、それは全て神に与えられたものであって、神の御教えに従った結果であった。しかし、列王記の著者は、その後、申命記の原則から離れた彼と彼の王国がどのようになっていったかを示しているのである。

実際、ソロモンの結婚は、本来近隣諸国との政治同盟を目的としたものであった。しかし、国外諸国との関係構築と平和維持を目的とした政略結婚が、逆に国内の統一を弱体化させる元になるとは、不思議なものである。エドム(15-22節)やアラム(23-25節)は、過去の恨を持った敵対者であったが、同朋のヤロブアムは、まさに神によって立てられた敵対者であった。どんなに知恵を働かせて、防御を固めようが、神の守りを得ずして私たちの守りはない。「【主】が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい」(詩編127:1)とあるとおりだ。

3.ダビデの約束の故に、キリストの型

神はソロモンに怒りを燃やされ、王国の分裂を警告している(9-13節)。しかしソロモンが、神を恐れて悔い改めた記録はない。神殿奉献の際に、あれほど主を恐れる祈りをしながら、なぜ、彼は、二度も現れた神の前に、ひれ伏し、恐れ、悔い改めることをしなかったのか、不思議である。ともあれそのようなソロモンが守られたのは、ただ、「父ダビデに免じて」(12節)、つまりダビデと神の契約の故である。人は不誠実であっても、神は誠実である。神はダビデに約束されたことを不敬虔なソロモンに対しても守り続けられた。今日でいえば、キリストに免じて、私たちが日々守られているのと同じである。神とキリストとの契約の故に、私たちの祝福は取り去られない。そうであればこそ、キリストの十字架の苦しみを無にしない歩みが求められるところである。

基本的に人間は学ぶことよりも教えたがるものである。それは教える行為が人の優越感を満足させるからだ。だが教えることよりも、神の御言葉に学び、従うことにこそ意を注ごう。パウロがテモテに勧めるように、「自分自身にも、教えることにも、よく気をつける」それが、「自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになる」(1テモテ4:14)。学ぶことが、基本的に自分のためになるだけではなく、その教えを分かち合う人々のためにもなる。それが教育というものだろう。