1列王記15章

15章 アビヤムとアサ、ナダブ

<要約>

おはようございます。ユダの王の歩みと、イスラエルの王の歩みがそれぞれ語られて行きます。ユダの王に関して注目すべきは、「ダビデに免じて」というキーワードでしょう。実に、「イエスに免じて」と読み替えるべき、重要なキーワードです。今日もイエスに免じて、守られてあること、主に善き者とされていることを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.悪王アビヤムとダビデによる守り

ヤロブアムの後を継いだアビヤムは、神のみこころに従わない悪い王であった。しかし聖書は、「しかし、ダビデに免じて、彼の神、【主】は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。」(4節)という。

これは私たちにも言えることである。私たちもアビヤムと同様、神の前に日々不誠実な者である。しかし、イエスに免じて、私たちの神、主は、私たちに一つのともしびを与え、私たちの歩みを堅くされている(エペソ1:3)。イエスが、主の命じられたことに従い、十字架にご自身をささげ、全人類の贖いをなしとげられたことに免じてである。イエスの十字架に、私たちの人生の全てがかかっているのだ。私たちはイエスに免じて、神の前に恐れることなく立つことができるのであるし、イエスに免じて祈りをささげることができるのであるし、イエスに免じて礼拝し、奉仕し、日々の証しをすることができる。そしてイエスに免じて、主の祝福を受け継ぐ者となっている。実に、イエスがあるからこそ、今の私たちは神ののろいではなく祝福を期待することができる。

しかも、ダビデは神の前に汚点のある人間である。神がそのダビデに免じてというのであれば、全く聖い神の子であるイエスに免じる神の約束は、決して反故にすることのできないものである。

2.善王アサ

アビヤムの後継者であるアサは、神のみこころに従う善い王であった。彼は41年間王であり、神殿男娼を国から追放、偶像を取り除き、母を偶像崇拝の罪で皇太后の位から退けるなど、宗教改革を実施していく。「アサの心は生涯主とともにあり、全きものであった」と著者はアサにプラスの評価を与えている。そして、アサがアラムと同盟関係を結んだこと、また両足が病気になって死んだことを補足している。興味深いことは、歴代誌の著者とは、書き方が異なっていて、同盟も病気も、無色透明に描いていることである。

つまり、歴代誌の著者は、アサがアラムの王ベン・ハダドと盟約を結んだのは、国の安全のために神よりも人間的な手段に寄り頼んだためであること、そして、列王記の著者が割愛したこと、アサが自分の政策に反対する者を弾圧し、神の守りよりも人間的な同盟に、安心を得ようとしたことを明確にしている。そして彼がその晩年両足が病になった時に、主を求めなかったことを明確にしている(2歴代16:7-12)。列王記と歴代誌では、アサに対する著者の評価が異なっている。それは、アサの生涯のどの時点に評価を置くのかという問題であったのかもしれない。アサの生涯の最初に注目した列王記の著者と、その後半に注目した歴代誌の著者、それぞれの著者の意図の違いがあるというべきか。「ダビデに免じて」アビヤムの生涯があったとすれば、「ダビデに免じて」アサの生涯もあった、ということなのかもしれない。理解に苦しむところである。

3.ヨシャファテ、ナダブ、バアシャ

神はかつてヤロブアムの罪を裁かれることを宣告された(14:10-16)。ヤロブアムは、まことの神を捨て去ったが故に、その家は絶ち滅ぼされ、墓に葬られる者はないとされた。実に、ヤロブアムの子ナダブの時代に謀反が起こり、ヤロブアムの全家は一人残らず根絶やしにされた。神のことばは生きている。神のことばが無に帰すことはない。しかし、人間は神のことばを恐れない。バアシャはヤロブアムと同じ罪と愚かさを繰り返している。神の裁きは遅々として進まないように見えるものである。しかし、それは、臼がゆっくり動いても確実に穀粒を砕くようなもので、やがてその結果は明らかになる。神をあなどることはできない。

真に神を畏れる心を持つことができるように。真に神のことばが生きていることを覚える心を持つことができるように。今日も主のことばを心から味わうことができるように。神の前に目を覚まして歩ませていただくよう、祈っていこう。