2列王記3章

3章 主の目に小さなこと
<要約>
おはようございます。今日の箇所にも、記憶すべき素晴らしいことばがあります。「主の目には小さなことです」私たちにとってはどんな無理難題であっても、主の目には小さなことである、という信仰を持つ、これが信仰者の道というべきものでしょう。主に信頼する力を持ちたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ヨラムのエドム討伐
 アハブの子ヨラム王のエピソードが挿入される。これは、1:17-18の続きである。アハブの死後、アハズヤが王となったが、彼は病気となったためにモアブの独立運動を阻止することができなかった。そこで、代わって王となったヨラムが、これに対応しようと動き出すのである。
モアブは、イスラエルに毎年子羊10万頭、雄羊10万頭分の羊毛を貢物として納めていたので(2列王3:4)、その独立は、イスラエルの国にとっては極めて不都合だったのである。ヨラムは、ユダ、エドムの連合軍を結成してモアブ討伐に出かけた。そこで、どの道を通るか、彼らは、作戦を練っている(8節)。彼らは、「エドムの荒野の道」つまり、死海の南端を迂回し、南側からモアブの首都キル・ハレセテに攻め込む道を選んだ。それは、七日の道のりを要する遠回りの道であった。エドムに入るには、死海の北側を回り、ヨルダンの谷を越えてモアブの地に行く逆周りの道もある。そちらが最短であった。しかしその道は、地形的に急な斜面が多く、連合軍が通るには難しかったのだろう。
ところで、新改訳・新共同訳聖書では、ヨラムがその戦略を提案した形になっている。しかし、文語訳聖書ではヨシャファテになっている(8節)。何がそうさせたのか?原文を見るとヨラムともヨシャファテともなく「彼」という代名詞である。文脈で解釈する他はない。だから、対話の流れからすれば、ヨラムと取るのがよいと思われる。
さて、話を戻すが、彼らはわざわざ遠回りをしたので、水が不足し、軍隊そのものを維持し得ない状況になった。もはや、戦う前に負け戦を意識させられる状態となったのである(10、13節)。しかし、信仰の人ヨシャファテは、この窮地でどう行動すべきか知っていた。彼は主の御心を求めることのできる預言者を探した。そして、主の預言者エリシャのことばを求めに出かけた。実に、聖書は、イスラエルの歴史を記述しているようでありながら、それ以上の意図を持っている。本章もまた、神が立てた預言者を通して、神の存在を知らせることにその意図がある。
2.エリシャが示す神
神を信じる者は、明らかに敗北であるような事態に陥っても、決して簡単にはあきらめない。まずは神のみこころを聞く姿勢を持ち、神のもとに駆け込むことを知っている。しかしその姿勢は一朝一夕で身につくものではない。困った時の神頼みとは言うが、本当に困った時に、神に寄り頼んで、神のことばに耳を傾け、神の助けを待ち望む者は、意外にも少なかったりする。実際には、後ろ向きになり、否定的になって、神を呪うことすらある。ヨラム王は、すっかり物事をあきらめ、神に向かう心すらない、不信仰な人間の現実をよく示している。
 しかし今日、神が私たちの味方であり、神が、私たちにあらゆる可能性を開かれるお方であることを、改めて覚えることにしよう。主が私たちの問題に介入されるのは、実に「小さなこと」である(16,17節)。雨も風もない状況で荒野に水があふれることは、考えられないことであるが、それは主の目には極子細なことなのである。同様に、人が直面する問題がどのように解決不能と思えることであれ、それは主の目には小さなことである。大切なのは、そこで私たちがとことん主に寄り頼んで解決を願うかである。25節、キル・ハレセテは、モアブの首都と考えられていた。モアブの心臓部が破壊されてしまった、という。
 27節「イスラエル人に対する激しい怒りが起こった」とうのは、モアブの王が、悲惨な敗北にあたり、面目を失った民族神ケモシュを宥めるために、後継者の王子を城壁の上で、人身御供とした異常な事態に、モアブ人の怒りに満ちた反撃が起こり、イスラエルの勝利は決定的であったにもかかわらず、彼らは狼狽して撤退を余儀なくされ、戦争が終結した、ということなのだろう。聖書外資料であるメシャ碑文が、この戦いをモアブの勝利として書くのは、こうした事情によるものなのだろう。
 ともあれ、主のことばのあるところに、主の業が起こる。祈ろうではないか。自分の思いの全てを神の前に吐き出して、神の働きを願おうではないか。常に、神がしてくださること、神の恵みに期待して歩ませていただこう。