2列王記4章

4章 エリシャの奇跡
<要約>
おはようございます。列王記は、イスラエルの王の記録でありながら、本章では、エリシャの働きに焦点が合わせられています。そこに読者に意識し、覚えるべき特記すべきことがあったというべきでしょう。つまり、神の支配の中に、王も、平民も皆置かれていたということであり、この真理は今も変わることはありません。神を恐れ、神に従う者の日常性に配慮するのは、神であり、天来の力であること、またそのことを意識する神の人々であることを覚えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.配慮された預言者たちの生活
 当時、預言者は、社会の中で十分かつ正当な関心をもって取り扱われていなかったようである。神のみわざのために労し、死んだ預言者の家族が、生活苦に陥っている。しかしそれは旧約時代だけのお話ではない。パウロはこう語っている。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい」(ガラテヤ6:6)パウロは、教会がその働きに献身する人々の生活に配慮すべきことを教えている。つまり、新約時代にも、そのように言わねばならぬ事情があった、ということであり、それは、今日おいても同じである。
そこで神の人エリシャが、神の力によって彼らの生活を救済したことに注目しよう。神を恐れ、神に仕える者の生活は、神の力によって養われるべきものである。ある意味で、湧き出る油は、天来のマナというべきものであった。やはり、理屈で考えて、助けられない、支えられないということはあるものだろう。しかし、神に不可能はない。神の人と呼ばれるべき人々が、やはり教会の働き人を支えていく、配慮と心遣いを持つことが大切なのである。そこに神の祝福もある。
2.シュネムの女の心遣い
 続くシュネムの女の話は、働き人に配慮のある人物の記録である。シュネムは、イッサカル部族の相続地にある町であった。現在、それはモレの丘の南西山麓にあるソレムであると考えられている。彼女は裕福な女であり、エリシャを神の人として尊敬していた。エリシャがいつもシュネムの町を通るため、この女性は、彼が休めるような部屋を用意した。彼女は、自分に与えられているものを正しく用いる人だった。多く持ちすぎることについて、彼女は賢明な生き方を示した。そして、神の働きのためにすべてを投げ打ったエリシャの働きを支えたのである。私たちが祝福されるのは、自分自身を富ませるためではない。自分自身から主の富を溢れさせ、関りのある者たちと共に豊かになるためである。
 さてエリシャは感謝の気持ちから、彼女に願いがあるならばそれをかなえたいと考えた。これほどよくしてくれるのには訳があろうと考えたのだろう。しかし、そうではなかった。彼女は何も欲しがらず、持たないことを気にするわけでもなく、ただ与えられたもので感謝しつつ生きる人であった。だがゲハジの提案で、エリシャは彼女のために子が授かるようにと祈り、シュネムの女には子が与えられた。しかしその幸いも、余計なことをしたかのように、やがて深い悲しみの試練をもたらすものとなった。父親の仕事を手伝うほどに子が成長したある日、その子は突然死んでしまったのである。
 
3.試練を乗り越えるシュネムの女
 なんとも余計なことをしてくれた、とシュネムの女は思わされたのではないだろうか。シュネムの女は、子がなくなってもうすべては終わりだと投げ出してしまうことはなかった。彼女は、主が生きておられ、エリシャも力ある神の人であるとなお信頼している。だから、エリシャにすがり、解決を願っている(30節)。そして神は、エリシャの祈りに応えて、子にいのちを返された。神は私たちを助けてくださる。
 大切なのは、正しく物事を考え、神に仕えていったとしても、試練は起こりうることである。先の献身者のお話は、当たり前のように思うところがあるかもしれない。神に献身した人間は、大変な苦労をして生きていくのが当たり前であるが、献身者を支える人が、苦難に巻き込まれることはない、とでも思うことがあるかもしれない。しかしそうではないだろう。先の献身者も神を恐れ、神の前に最善に生きた人である。そして裕福な女も、神を恐れ、神の前に最善に生きた人である。彼女が苦難に与ることも、当然ありうることだ。苦難に巻き込まれずに、自分に都合のよい奉仕をするだけの人生というのはあり得ないものである。しかし、神の人の同労者であるならば、たとえ、苦難に巻き込まれることがあっても、神は必ずや、救いの道を与えてくださる、と理解すべきエピソードではないだろうか。
3.飢饉を乗り越える神の助け
 最後のエピソードは、二匹の魚と五つのパンの奇跡を思い起こさせるエピソードである。列王記の著者は、淡々とエリシャの奇跡物語を記していくが、こうして読んでいくと、イエスとの差は、十字架以外にない、と思わされるところである。エリシャもイエスと同じような働きをしている。けれども、彼は定められた時と場に生まれた救い主ではなく、また十字架の犠牲を耐え、贖いを成し遂げた救い主ではない。彼は、ただ、神の人として、神のしもべとして生き抜いた人である。まだ神の時は満ちていなかった、というべきだろう。しかし、これらのエピソードは、彼が奇跡を行う力ある預言者であった、ということを示すのではなく、神が神を恐れる者たちを助けたということを示すことにある。焦点は、エリシャではなく、配慮される神にある。
そして私たちが願ったことについて、神の奇跡に与りうるかどうかは、神の主権の事柄である。祈りの人と呼ばれたジョージ・ミュラーは、神の助けによって孤児院を建設しようとした際に、「主よ。もし、あなたにもう一つの孤児の家を開設する必要がありませんのなら、私にもその必要はございません。」と祈ったという。神は私たちの思いを越えた働きをなしてくださる。しかしそれは神の主権による行為であることを忘れてはならない。だがその主権は豊かさと力と勢いを与えるものである。神に期待し、神の助けと導きを求める者であろう。