2列王記5章

5章 将軍ナアマンの癒し
<要約>
おはようございます。ここ二子玉川は、バラが綺麗な季節になりました。大輪のピンクとオレンジのバラ、いくつか、遠回りをしても、バラを見ていきたい、そんな場所もあります。私たちの力を超えた、これら素晴らしい自然の恵みを与えてくださった神の命の力を、まず覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ナアマンの病
アラムの将軍ナアマンが、重い皮膚病に悩んでいた。そんな彼に、イスラエルから連れて来られた女奴隷が助言をしている。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」(3節)このしもべは、確信を持っていた。神の人がすることへの確信である。あの人だったら、「きっと」こうしてくださるでしょう、と。エリシャの神の人としての評判は、庶民の末端にまでも浸透していたことを思わされるところである。これまで王の物語を書き綴ってきた、列王記の著者は、先の4章で、エリシャを通して力を現される神について、切々と語るところがあった。イスラエルにおいて、バアルの偶像ではない、まことの神の存在は、彼の働きを通して、誰の目にも明らかにされていた、ということだろう。こうしてナアマンは、イスラエルの一人のしもべによってまことの神のもとへと導かれていく。
一方イスラエルの王は、アラムの王から来た手紙を読み「服を引き裂いた」という(8節)。ナアマンの病気を治してくれるように、と難しい要求をするアラムの王に、新たな軍事的な圧力をかけられるように感じたのだろうが、これが神を認めない人の限界であり現実である。神の存在を認める人には、女奴隷のように、神についての一つの確信を持っている。「きっと」と神を語る力を持っている。キリストのもとに行くなら「きっと」あなたの人生は変わる、そういう確信と経験の中に生きている。だから、「きっと」神様だったらと、自らの経験を重ねて証しする機会が与えられる。福音宣教とは、ことばの業ではなく、確信の業なのである。
2.ナアマンの癒し
さて神の人エリシャのもとへやって来たナアマンは、癒しのためにヨルダン川に三度身を沈めるように勧められた。ナアマンは自分が癒されるために、ある種のイメージを抱いていた。エリシャの手によって魔術的な行為が行われると考えていた。しかしそうではなかった。さらに、ナアマンは、汚れたヨルダン川に身を沈めるように勧められた。神のことばに従うことは、しばしば、私たちの思いに反するものがある。私たちの先入観や自己中心な願いを捨てずには、受け入れられないものであったりする。しかし、第2のしもべは言う。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに「身を洗って、きよくなりなさい」と言っただけではありませんか」(13節)
 「ただ」言っただけではありませんか。神は難しい注文はなさらない。神の祝福に与るために求められることは実に単純なことである。ただ、十字架でイエスがなしてくださったことに信頼するだけであり、神の業に信頼し続けるだけのことである。福音宣教は、その簡単な救いを語ることに他ならない。福音宣教は、複雑なものではなく、単純なものである。しかし、この単純な福音を語る、ほんの小さな勇気に人は欠けていることが多いのだ。
3.ナアマンの決心
癒されたナアマンはイスラエルの神への忠誠を誓った。ただ職務上、リモンの礼拝に加わらなくてはならないが、「身をかがめること」を容認してほしいとエリシャに願っている。新改訳は訳し分けているが「拝む」も「身をかがめる」も同じ言葉である。また「安心して行きなさい(19節)」というエリシャのことばも、単に「さようなら」と訳せることばで、必ずしも承認したと言えるものではない。神に対する忠誠は、其々が神との関係で決めることだ、ということなのだろう。
最後にゲハジの教訓がある。神のしもべであっても、神から遠く心離れた者がいる。信仰は内面的なことである。見かけではない。今の生は、神に仕える時であり、銀や金を受け取る時ではない。そこにしっかり立ちうるかどうか、それが神に仕える者に問われているところでもあろう。神に真に従う歩みをさせていただこう。