2列王記6章

6章 開かれた霊の目
<要約>
おはようございます。ちょっとしたことにも主の配慮がある、聖書はそのように語っても、と現実は思うこともあるかもしれません。しかし、敢えてこの物語が書かれたのは、やはり、神に期待し続けることは、正しいことを教えるためであると言えるでしょう。神のご計画に対する忍耐を失わずに、祈り続けたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.どんな小さなことでも
「エリシャの物語で最もつまらないものであるが、預言者が小さなことでも喜んで援助したことを示すもの」(デンタン)とされる沈んだ斧の物語である。なぜこんな小さな物語が記録されているのか。不思議なところである。ただこれは借りた斧であり、どうしても返さなくてはならないものであったようだ。そういう日常の中で、ちょっとした困ることはあるもので、神の配慮はそういうことにも及ぶと考えるのがよいのだろう。
そういう意味では、イエスが最初になさった水をぶどう酒に変える奇跡や、魚の口からスタテル貨一枚を取り出した奇跡は、同じようなものかもしれない。イエスの母が困った事態に及んで、イエスは、「何の関わりがあろうか」と語りながらも、その必要に応えている。実に、これが神と何の関わりがあるのか、自分の失敗である、自分のちょっとした過失であると思うようなことについても、神は求められることには、応えてくださる、ということだ。どんな小さなことでも神に求めたいところである。
そこで大切なのは、私たちの信仰の目が開かれることである。イエスはよく目の見えない人が見えるようになる奇跡を起こしている。それは肉の目が奇跡的に開かれるお話しだ。しかし開かれなくてはならないのはまさに霊の目である。パウロは、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」「天にある霊的祝福」を知ることができるように(エペソ1章)と祈っている。実に霊の目が閉ざされていることが、私たちの迷いと苦しみの根源ですらある。次のエピソードは、まさにその重要さを教える。
2.アラムに包囲されたエリシャ
アラムとイスラエルはしばしば戦争をしていた。しかしなぜかアラムは負けてばかりいた。それはエリシャがアラムの戦略を見抜き、イスラエルの王に助言し、イスラエルの戦いを有利なものとしたからである。アラムは、初め、自分たちの軍事機密が漏れているのは、身内に反逆者がいるからではないかと疑った。しかしそうではなく、敵側に神の霊によって戦略を見抜く、預言者がいることを知る。
 そこでアラムの王は、エリシャを捕らえようと動き出した。アラムの王は夜の内に大軍を移動し、エリシャの住まうデタンの町を包囲した。夜が明けるとエリシャのしもべが、町を囲むアラムの大軍を発見し、恐怖におののいている。
 しかし、エリシャは「恐れるな、私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(16節)」と諭している。エリシャは目に見える現実ではなく、目に見えない神の支配を覚えていた。そして、エリシャはしもべたちにも、アラムにまさる神の軍勢が見えるように祈った。霊の目が開かれ、彼らは心の平安を得た。私たちを「取り巻いて山に満ちている火の馬と戦車」を見る霊の目が開かれるように!そしてあなたも心に平安を得ることができるように!
3.平和を創り出す
さて立場は全く逆転してしまった。戦わずにして敵を手中におさめたヨラム王は、この機会とばかりに、敵を徹底的に痛めつけもはやアラムが侵略する気にならないようにしようと提案した。しかし、エリシャは、敵を手厚くもてなし、祖国に無傷で送り返すようにと促す。剣に愛をもって応報するのがエリシャの考えである。報復の応酬はいずれかが犠牲を持って治めぬ限り終わらない。平和は与えられるものではなく、神の愛に生きて作り上げるものである。十字架の神の愛に生きることが、私たちの使命なのである。