2列王記12章

12章 無駄な修復
<要約>
おはようございます。ヨアシュの時代は、過去のものにあらず、実に、現代を映し出す鏡のような状況なのかもしれません。神の民が神の民であるために、神の民の本当のいのちが、燃え輝くために、私たちは、神の大いなるあわれみと恵みを必要としているようにも思います。ヨアシュやヨアシュの時代の人々のあり方に、教えられたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ヨアシュの不信仰
エホヤダによる宗教改革は、イスラエルが、神に対する真の信仰を回復する、絶好の機会となった。確かにヨアシュの40年間の統治は、イスラエルの民の心を神へと向けた節がある。ヨアシュは、エルサレムの神殿再建に着手している。
おそらくアタルヤによって、神殿に回されるべきお金はみなバアル礼拝に用いられていたため、神殿は荒れ果てていたのである。それが再建され始めたということは良い兆候である。だが、その神殿再建も決して彼自身の主に対する熱心さから来るものではなかったようだ。彼は、自ら主によりよく仕えていくような人ではなかった。聖書は、証言する。「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った」(2節)。
彼は、成人して、自立するようになると、言われたことには対応する程度の歩みしかしなかったのである。つまりヨアシュの信仰は、決して自ら神と良き時を楽しみ味わい、喜び、そこから献身的に主に仕えるというようなものではなかった。しかし、そのような信仰のあり方というのは、いくらでもあることなのかもしれない。神を信じているというのは、建前のこと、あるいは形ばかりで、人間関係のバランスの中で、営まれているだけ、ということはあるものだろう。果たしてそんな信仰で、やがて来る神の御国においてどんな報いを期待しようというのか、とも思うところである。
ただ、そのようなあり方は、ヨアシュだけではなかった。エホヤダ以外の祭司たちもまた、ヨアシュ同様に真に神を仰ぐ祭司とは言えなかった。彼らは祭司をやっている人々に過ぎなかった。というのも、なぜ、10数年近くも神殿再建が遅れたのか。それは、必要とされるお金が集まらなかったせいであるのだが、神殿建築に直接お金が使われる、仕組みが出来るや否や、お金は集まりだしている。それは、財を寄進する国民は、神殿再建のための寄付金を預る祭司をあまり信用していなかったということだろう。使われ方に対する不信感があった、ということだ。神を畏れ、まことに神に仕え、神のために労する心を持った祭司たちは、いなかったのである。
2.ヨアシュに対する裁き
 17節。アラムの王はハザエルが起こされたのは、そんなイスラエルに対する神の裁きである。ヨアシュは、アラムの攻撃をかわすために、主の宮と王宮との宝物蔵の金を使って、アラムの王を買収した。なんとも修復された主の宮は、再び丸裸にされ、荒れ果てさせられてしまった。国民のささげたものは空しく消え去ってしまった。
大切なのは、神を信じているとは言っても、神と心ひとつにしてする働きでなければ、どんな霊的な働きも空しい、ということだろう。人間がどれほど、自分の力で努力したとしても、神がこれを守ってくださるのでなければ、その努力は空しい努力となる。しかし、ダビデをはじめとする他の王のエピソードが教えているように、神の哀れみがあるなら、人間の力不足を超えた、神の祝福と支えがある。神を認め、神に一瞬一瞬より頼むことなき所に、神の業は現れない。人間の業はなされても、神の祝福の業はない。
列王記の記者は、ヨアシュの変節については触れていない。それは歴代誌に詳しい。彼は、「なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか」と警告を与えた祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺している。結果、主を捨て去ったヨアシュは、神の裁きを受けていく。彼はダビデの町には葬られたが、王の墓には葬られなかった。彼の信仰の姿勢が認められなかったからであろう。信仰は個人的なものである。それは主体的、自律的なものである。誰かにあやかって持つようなものではない。一人一人を愛しておられる神に対する応答である。神と四つ手を組んだ、信仰の歩みをしっかりとさせていただこう。