1歴代誌9章

9章 エルサレムの回復

<要約>

おはようございます。これまでの系図の総括というべきものです。細かな名前については、もはや私たちにはわかりにくいとしても、その大きな流れはよく理解され、また励ましを得る内容になっていることは確かです。主が約束を忠実に守られる、あわれみ深いお方であることを、この系図を通して、また読み味わいたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.これまでのまとめ

9章1節は、これまでの総括である。そして2節以降は、二つの系図からなっている。捕囚から帰還し、イスラエル中心であるエルサレムを再建するために集まった人々の系図(2-34節)、そしてサウルの系図(35-44節)である。

まず前者については、エルサレムに帰還し、主の宮に仕えた人々の出所を明らかにしている。ネヘミヤ記11章の系図と比べるなら、内容的にかなり違い、明らかに、3:17-24以外は、歴代誌の著者の時代に記録されたものである。2-17節は、ネヘミヤ記11:3-19と重なっており(ネヘミヤ記では81名、歴代誌では71名、その中で35人が重なっている)、歴代誌はネヘミヤ記をベースにしていると考えられている。

その関係については、まだ結論は出ていないものの、注目すべきは、アダム(1章)と12部族(2-8章)に遡る、神の民の歴史は、たとえ、神に対する不忠実さによって裁きを受け、捕囚の悲劇にさらされようとも、神の契約の確かさを示すごとく守られ、復活し、立たせられている事実である。またその群れの中にエフライムとマナセ、つまり旧イスラエル北王国のメンバーが含まれている事実である。ユダ南王国のみならず、イスラエル全体の再建への期待が寄せられていることだ。

第二列王記は単純な希望で終わっているが(2列王25:27-30)、それが書かれたのは、イスラエルがまだ捕囚の抑圧の中にいる時であった。しかし、歴代誌は、その抑圧から解放された後の時代、捕囚後の春が到来した時代に書かれた。かつてエゼキエルは、「断ち切られた、望みが失せた」と嘆くイスラエルに、主の御告げとして、エフライムとヨセフにつくイスラエルの全家をユダと再び一つにし、イスラエルの地に連れて行く神の約束を語った。今や神は、その約束通りに、イスラエルに息を吹き返してくださった(エゼキエル37:1-23)。こうして著者は、9章において、神の約束の確かさを明らかにしている。私たちが破れた礼拝、力のない礼拝を再建するために必要なのは、この神の約束の確かさとあわれみの豊かさであろう。

2.エルサレム再建への拘り

ところで彼らはエルサレムに帰還したが、ネヘミヤ記を読むと、そこは、かつての行政、宗教の中心であったとしても、農耕には適さず、生活は容易でない所で、10人の内9人はエルサレムの外に住まざるを得なかったとされる(11:1)。なぜ彼らは新しいイスラエルの再建のために、新たな首都を求めなかったのか、と思わされるところであるが、生活の便利さを差し置いて、何よりもエルサレムでの礼拝再建に拘った所に、考えるべきことがある。確かに、神に従うことにおいて、合理的に、またこの世的、人間的に考えれば何もそこまで拘らずとも、と思うことはあるかもしれない。しかし、神のみことばに従うことは、人間的な損得の問題ではない。ただ従うこと、それ自体に意義がある。エルサレム再建は、彼らにとっては約束に忠実な神を見出すことであり、それ自体が喜びなのである。

3.割り当てられた奉仕

さてリストには住み着いた人々に割り当てられた奉仕が記録される。天幕の入り口を守る者(19節)は今で言えば受付当番、脇部屋および神の宮の宝物倉をつかさどる者(26節)は営繕管理者、そして器具の管理、香料の調合、パンの準備(29-32節)、いわゆる聖餐準備、そして歌うたい(33節)は奏楽や聖歌隊に相当する。そういう意味で、単純に適用すれば、それは教会を教会として成り立たせている、ごく当たり前の奉仕である。礼拝の再建にあたり、神が著者に心を配らせたのは、まずこうした地味な奉仕であった。生活の不便さや困難の中にあって神の御言葉に従い、教会を再建しようとする礼拝の民に割り当てられたのは、神の宮を夜回りする仕事、朝ごとに鍵を開ける仕事、日々運び出す仕事、安息日ごとに用意する仕事である。礼拝の再建は一週に一度の日曜日が勝負なのではない。教会にそれこそ朝ごとに、夕ごとに細かに心を配り、忠実に仕える信徒が育ってこそ達成されるものだ。

後半は、次の箇所で扱うサウルの王朝の導入(10章)になっている。この系図は、ほとんど8:29-40の繰り返しである。ただ8章の場合は、3人の中心的なベニヤミンの家族の居住場所に強調点があったが、ここでは本来の10章から始まるサウル王について語るための序論として機能している。しかも、サウル王は退けられ、ダビデ王がとって代わったが、サウルの子孫は、その没落にも関わらず、こうしてエルサレムに住むことが許されていた。彼らにもまた希望はあったのである。人間は切り捨てておしまいであるが、神はそうではない。神に希望があるというのは、こういうところで、また教えられるのである。