1歴代誌21章

21章 神のあわれみの場としての神殿

<要約>

おはようございます。なぜ、歴代誌の著者は、罪の問題を語るにあたり、バテ・シェバの罪ではなく、人口調査の罪を取り上げたのか。そこには歴代誌の著者の意図があると言えるでしょう。罪は倫理的な不道徳以上のものです。その本質を見誤ってはならず、またその罪に対する神の人間への関りの本質も誤解してはならないでしょう。主のあわれみ深さを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.バテ・シェバの罪ではなく人口調査の罪

ダビデが犯したもう一つの罪、人口調査の出来事が描かれている。歴代誌の記事は、サムエル記24章を土台としているが、人口調査が、バテ・シェバの事件よりも重い罪として描かれているのが特徴である。

ただ人口調査それ自体に問題があろうはずがない。それは、軍事力の調査(民数1:3)、神殿税義務者の調査(出エジプト30:11-16)、相続地割り当ての目的(民数26:52-55)といった形で、国家の政策のためには必要不可欠のものとして繰り返されてきたものであった。それなのに、これが、部下のヨアブに異を唱えられたのみならず(6節)、神の意にも反してしまった(7節)とされるのは、どうやら神殿建設を控えながら、まず半シェケルの人頭税を集めるため神殿税義務者の調査をすべきところを、軍事力を誇る頭数の調査として行ったダビデの動機と意識の問題にあったようだ(3節、27:23-24節)。つまり、歴代誌の著者は、罪の性質を明確にするために、バテ・シェバの事件よりも、敢えて人口調査の事件を選び取り上げたのである。実に、罪は、倫理的な不道徳以上のものである。それは、神の主権を認めず、神の御心に従わないことを意味する。そして、この罪は怠惰な日々の中ではなく、大変喜ばしい契約の約束(17章)と戦いの勝利(18-20章)の後に起こっている。罪は、必ずしも怠惰の結果でもない。

2.罪に対する神のお取り扱い

またここで著者は、裁きではなく、神の恵みを強調する。神は赦しとあわれみと忍耐に富んでおられる(15-27節)。そのような神のあわれみのもとで、ダビデは悔い改めをし、神に応答して正しいことを実行するように求められている。

結局ここから教えられることは、ダビデが勇士であるとも、また、礼拝を形作った偉大な霊的な指導者であるとも言われているが、ダビデも、私たち同様に、礼拝の民の行動の原則を、このような失敗を通して一つ一つ学ばせられていることである。先にダビデは、契約の箱を運び出すにあたり、「牛車」ではなくて「レビ人」を用いるべきことを教えられ、それをやり直したように、神殿建設においては、まず人頭税を取るべきこと、皆の責任でこれを再建すべきことを教えられ、悔い改めの中で、やり直しをしている。偉人も一夜にしてはならず、神の懇切丁寧な指導による。教えられることは、人口調査を咎める神がおられることではなく、忘れられた礼拝の民の原則を、一つ一つ丁寧に教えてくださる神がおられることであろう。神は養育的に、建てあげるように関わるお方であり、「もうかばいきれない」と人を見捨てるような方ではないのである。

3.神の本質は赦しにある

次に神殿建設のために土地を購入したエピソード。神がこの地を神殿建設用地として選んだことは、天から火を下して応えられたこと(26節)、み使いが剣を鞘に納めたこと(27節)によって明らかにされている。また、21:28-22:1は、元々のサムエル記の記事にはない、追加された部分であるが、それによって、著者は、ダビデが贖われた場所が新しい神殿の場所エルサレムになったことに注意を向けている。つまり、歴代誌の著者の興味は、アラウナの土地に礼拝の場所が定められたという単なる地理的な変更を記録することではない。むしろダビデの罪によってイスラエルが滅亡にさらされた時に、ダビデが悔い改めとやり直しのために祭壇を築いた場所にこそ、神殿が定められたことの強調である。つまり、神殿が定められた場所は、神のあわれみが示された場所であり、神の赦しがもたらされ、罪と裁きが取り除かれた場所である霊的な意味に注目させている。神殿は罪人が赦しを得、再びささげ物をもって礼拝することができる最高の場所である(マラキ3:10、ネヘミヤ10:32-39、ルカ18:13)。ダビデはもはやギブオンの祭壇に行くことができなかった(30節)。しかし、彼はエルサレムに新しい、祭壇と機会を与えられる。悔い改めのあるところに新しい出発が約束される。教会も人にとって、新しい出発を導くあわれみと恵みに満ちた場所となることが期待される。